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今も輝いている奇跡のスタンダード・ソング~歌い継がれて60年を迎えた「黄昏のビギン」は

2014.07.17

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TAP the POPの書き手の一人である佐藤剛が執筆した著書『「黄昏のビギン」の物語』(小学館新書)を下敷きとして、ライブとゲストのトークで、ひとつの歌が成長していく物語を立体的に体感するイベント、「奇跡のジャパニーズ・スタンダードー世田谷音楽プロジェクトvol.1 フォーラム」が、2014年7月1日に東京・世田谷区の北沢タウンホールにて行われました。
当日のトークで明らかにされた新たな事実と、人と人との不思議なのつながり、異なる歌い手にカバーされた曲の魅力など、イベントの様子をお伝えします。

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「黄昏のビギン」はデビュー曲の「黒い花びら」で第1回日本レコード大賞を受賞した、水原弘の2枚目のシングル「黒い落ち葉」のB面として、1959年に発表されました。

しかし歌が発表されたときもそうだったのですが、32年後にちあきなおみがカバーして評判になった後も、大きなヒットには結びつかず、どちらかといえばひっそりと影をひそめていた楽曲です。

そんな目立たない歌がCMソングや映画への起用などから次第に脚光を浴び始めて、いつしかカヴァ・ーブームの代表曲といえるほど、多くの歌手に歌われるようになったのは21世紀を迎えてからのことでした。


(詳しくは既出のコラム、「発売から32年後、ちあきなおみによって奇跡的によみがえったジャパニーズ・スタンダード」をご覧ください。)
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長年にわたって歌い継がれ、演奏され続けることで親しまれるようになった楽曲、すなわちスタンダード・ソングとなりえる歌には、どんな人が、どんなアレンジで、どんな歌い方をしても、芯が揺らがないだけの骨格すなわちメロディーが備わっています。音楽の骨格がしっかりしていて、メロディーだけでも伝わるメッセージがあるということを知っていただくために、まずはインストゥルメンタルで聞いていただきたいと思います。


こうした佐藤剛の言葉とともイベントは始まりました。
まずはバイオリン、チェロ、ギターによるスイング形式のアレンジ、続いてはタンゴ形式でと2種類の「黄昏のビギン」の演奏からスタート。
スイングの場合は流れるような響きで聴くもの軽やかな印象を与える一方、タンゴになると哀愁の奥にどこか隠された怒りをも想起させるものでした。
同じメロディーでありながら、そこにはまったく別の世界が感じられたのです。

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<第一部――中村八大という作曲家>

第一部では伝説の音楽バラエティ番組として知られる『夢であいましょう』のスタッフ、もとNHKのディレクターだった下川純弘氏をゲストに迎えて、生放送しかなかった当時の話が語られました。

佐藤:八大さんは日本に引き揚げてきて数年間、九州の久留米市に住んで中学に通っていたのですが、縁あって作曲家の利根一郎が率いる歌謡ショーの一座と1948年の春に、北九州の炭鉱町を巡業で回りました。
中国の青島(チンタオ)で生まれ育ち、ドイツ風の街並みとドイツから亡命して来たユダヤ人の先生にピアノを習った八大さんは、生粋のクラシック育ちでしたが、そこで日本の大衆娯楽の面白さを肌で感じたのだと思います。
その北九州の炭鉱町へ作曲家の利根一郎さんの歌謡ショー一座を招聘されたのが、実は下川さんのお父様だったことを、ぼくはつい最近になって知ったのです。

下川:そうなんです。僕の父は戦前は小学校の先生をやっていたのですが、終戦後は大牟田にあった三井鉱山・三池炭鉱の職員となって、炭鉱夫の慰安係を務めています。そこで日曜日はいつも芸能人を招いたり、娯楽映画を流したりしていました。
石炭が主なエネルギーだったから四軒長屋が何百も並ぶ町に、たくさんの鉱夫たちが住んでいました。
中央には大きなお風呂と講堂があったんですが、そこで日曜日になると興行をやる。家族にも娯楽が必要ということで、いろんな芸人を呼んだり、映画を上映したりしていました。
利根一郎さんもおそらく父が呼んでいて、私も会っていたはずなのですが、幼い頃の記憶でしてあまり自信がありません。

佐藤:利根一郎さんというのは作曲家としては後に、橋幸夫の「霧氷」でレコード大賞を受賞しています。大ヒットした「星の流れに」は、それを街中で聴いた服部良一が後に「東京ブギウギ」を作曲したりするきっかにもなったりしています。
音楽家として生きることを決めていた八大さんが、16歳ぐらいで将来は作曲家になろうと具体的に考えはじめたとき、一緒に巡業したプロの利根一郎から歌謡曲の作曲家の生き方、矜持や志ともいうものを学んだんじゃないかと思います。

下川:中村八大さんは「僕のメロディーが100年後、200年後、なにかのかたちで残っているといいと思っているのよ」という話を、以前していました。
「たとえばオペラとか民謡とか、そういうなにかのかたちで残っているといいなぁ」と。


<第二部――異なる歌い手がみせる情景>

第二部は「黄昏のビギン」に影響を与えたと思われるジャズ・スタンダード、「ビギン・ザ・ビギン」を柴田菜穂のトリオが演奏して始まりました。
そこからは横沢ローラがボサノヴァ風にカヴァーしたヴァージョンや、もとJAYWALKのヴォーカルだった中村耕一による「黒い花びら」、三宅伸治による「星の流れに」などの関連する歌も披露されました。

「黄昏のビギン」は歌い手とアレンジが異なるだけで、同じ曲なのに雰囲気がまったく変わっていくのが体感出来ました。
横沢ローラの「黄昏のビギン」では、初々しさを含んだはずかしそうな女性の姿が立ち現れて来て、続いて中村耕一が歌うと、大人の魅力をたたえた男性による恋の回顧となったのです。

そのこと実感した横沢ローラが的確に、こう言い表していました。

この「黄昏のビギン」という歌は女性がスローで歌うと、たとえば、ちあきなおみさんのように憂いを帯びた歌詞になります。でも私が解釈すると、やっぱり「はじめてのキスとか「はじめて会った」とか、ちょっと新しい恋にわくわくした感じを抱いたりします。それをボサノヴァのアレンジで歌うと、気持ちが昂ぶるイメージが強くなるのかなと思います。
これをまた男性が歌うと、全然違う雰囲気に感じられて、それがすごく素敵な歌で、出会えてよかったと思っています。


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最後には佐藤剛が「上を向いて歩こう」について語り、オールキャストで会場の聴衆も加わっての合唱となりました。

「上を向いて歩こう」は坂本九さんが歌ったことによって、アメリカを含む全世界にヒットしました。でも、その20年後に日本ではもう一度、若者たちに歌われるようになっていきました。それはRCサクセションの忌野清志郎さんが、ロックバージョンにアレンジしてカヴァーしたからです。

それからは日本人なら誰もが知っていて、しかもライブなどの場で一緒になって歌える歌として、忌野清志郎さんが野外イベントなどに呼ばれると、アンコールで出演者全員が歌って演奏する場面には必ずと行っていいくらいに、たびたび歌われるようになっていきました。
そういう風にしてオリジナルの坂本九さんとはまた別に、次の世代が歌い継ぐことで歌が持つ本質が、その次の世代にも伝えられていったんです。

「黄昏のビギン」も最初に歌った水原弘さんから始まり、ちあきなおみさんをはじめとする実に多くの歌い手に歌い継がれて、55年経った今が一番輝きを放っていると言えます。


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(関連記事:【スペシャルインタビュー】仲井戸“CHABO”麗市〜RCサクセションはなぜ「上を向いて歩こう」を「日本の有名なロックンロール」と呼んだのか?


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このフォーラムは「世田谷に縁のある音楽家たちの手で、音楽文化を世界へ発信」をテーマにかかげた、世田谷区音楽プロジェクトの第一弾として開催されました。http://www.setagayamusic-pd.com/event/music_project.html
―――


佐藤剛『「黄昏のビギン」の物語: 奇跡のジャパニーズ・スタンダードはいかにして生まれたか (小学館新書)』
小学館


佐藤剛『上を向いて歩こう』
岩波書店

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