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ビョークがライヴを「自分の本質」と語る理由とは?

2016.06.28

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「ライヴが私にとってはルーツなのよね。レコード作りより前からやってるし、自分の本質というか地盤というか。
究極的にどっちを選ぶといわれたらライヴの方を選ぶと思うわ」
(「ロッキング・オン」2003年)


ビョークは自身の音楽におけるライヴの重要性について、2003年にフジロック・フェスティバル出演するために来日した時のインタビューで、そのように語っている。

この年のフジロックでは2日目のヘッドライナーを飾ったのだが、3年前に主演を務めた映画『ダンサー・イン・ザ・ダーク』の影響もあって注目度は非常に高く、グリーン・ステージには溢れんばかりの観客が押し寄せた。

時刻は21時半、プライマル・スクリームに続いてステージに上がったビョークは、電子音とストリングスが混ざり合うサウンドをバックに、時に静かに、時に激しくその歌を山奥に響かせる。
途中では炎や花火によるダイナミックな演出もなされ、観るものに衝撃と感動を与えた。

ビョークがステージで歌うようになったのはバンドを組んだ13歳の頃だが、その3年前には早くもレコード・デビューを果たしている。

幼い頃から音楽の非凡な才能を発揮し、ラジオ局で歌ったことがきっかけでレコードを作る話が舞い込んだのだ。
はじめはレコード会社側が歌う楽曲を選んだがビョークがこれを拒否したため、母親のミュージシャン仲間によって選曲し直され、2週間学校を休んでレコーディングされた。

1977年の12月に本名のビョルク・グズムンスドッティル名義による1stアルバム『ビョルク』がリリースされると、母国アイスランドでゴールドディスクを獲得するほどの大ヒットとなる。
このときビョークはまだ12歳だった。

Bjork「The Fool on the Hill」(The Beatles)



ビョークの名は“天才少女シンガー”として世間に知られ、周りの友人たちが見る目も変わった。
そんな環境の変化に居心地の悪さを感じたビョークは、このまま“天才少女シンガー”としての道を進むことに抵抗を抱く。
また、天賦の才能ともいえる歌声を披露するだけでは、彼女の音楽に対する欲求は満たされなかった。

「ただ、そのおかげで、私はとても早くになにが自分にとっての最優先事項なのか、つまり、それが音楽だってことを認識したわ」
(『ビョークの世界』より引用)


翌1978年、ロンドンで吹き荒れていたパンク・ブームは海を超えてアイスランドにも押し寄せた。
ビョークは髪の毛を短く刈り込んで眉を剃ると友人らと女性4人組のパンクバンドを結成し、ステージに上がって歌うようになる。
それがアーティスト、ビョークとしての第一歩だった。

ただこのバンドはすぐに解散してしまい、音源も残されていない。
次にビョークはエクソダスというバンドを結成すると、ジャズやフュージョン、ファンクを取り入れた実験的なサウンドを試みるようになっていく。
その独創的なステージに衝撃を受けたのがアイスランドで人気を集めつつあったパンクバンド、タッピ・チーカラスのエイソール・アルナルドスだ。
アルナルドスはビョークを自身のバンドに誘い、ビョークはタッピ・チーカラスの一員になるのだった。
このときのパフォーマンスは1982年のドキュメンタリー映画『ロック・イン・レイキャヴィーク』で見ることができる。



その後もビョークはグループを転々としながらステージに上がる日々を過ごし、観るものを自身の世界へと引きこむ術を肌感覚で身につけていくのだった。

そして1993年、ビョークはバンドという殻を破り、ソロ・アーティストとして新たなスタートを切ることになるのである。


こちらのコラムも合わせてどうぞ
ようやく私自身の曲を書く時がきたのよ~ビョークの27歳



参考文献:
『ビョークの世界』イアンギティンズ著 中山啓子訳(河出書房新社)
『ビョークが行く』エヴェリン・マクドネル著 栩木玲子訳(新潮社)

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