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人の心を動かす歌〜ヨイトマケの唄

2015.12.30

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今も聞こえる ヨイトマケの唄
今も聞こえる あの子守唄
工事現場の昼休み たばこふかして 目を閉じりゃ
聞こえてくるよ あの唄が
働く土方の あの唄が 貧しい土方の あの唄が



“ヨイトマケ”とは、「重い物を滑車で上げ下げしたり、網で引いたりする動作を、大勢で一斉にするときの掛け声。転じて、そのような労働、主に地固めなどの仕事を日雇いでする人。(広辞苑)」とある。
1965年7月、丸山明宏(現:美輪明宏)が作った名曲「ヨイトマケの唄」がキングレコードから発売され翌年(1966年)のヒット曲となった。
しかし、程なくしてこの歌は放送禁止となる。
歌詞の中にある “土方”という言葉がいけないという理由からだった。
1966年(昭和41年)といえば石炭産業のスクラップ・アンド・ビルド政策(閉山合理化)が進められていた時代であり、その国策により多数の炭鉱労働者が職を失った。
そして、旧産炭地の救済処置として道路や公園の整備など公共事業に失対の土木作業員として元炭鉱労働者等が従事した。
「自分が今あるのはヨイトマケをやってくれたお母さんのおかげだ」という内容のこの名曲がなぜ当時理解されなかったのか?
一部の大人たちの身勝手な言葉の解釈が、かえって差別を生みだしたようにも思える。


1964年(昭和39年)に、この歌は誕生した。
美輪は作曲当時のことをこんな風に振り返る。

「曲を作る時の伴奏には、幼い頃うちの(近所の)お風呂屋があった遊郭辺りを、夕方になると流していた豆売りの大正琴や竪琴の音色を使いたいと思った。」

作ってはみたものの…彼はこの歌をすぐに人前で歌うことはなかったという。
しばらく経って、自身の自宅で開いたささやかな誕生日パーティーの場で、彼はこの歌を初めて弾き語りした。
そこに集まっていた親しい友人達は口々にこう言ったという。

「どうして今まで歌わなかったの?」
「こんな良い歌、もっといろんな所で歌って、大勢の人達に聴かせてあげなきゃ駄目じゃないの!」


彼はまず手始めに、シャンソン喫茶などで歌い始めた。
冒頭の田舎っぽい掛け声に、皆はじめはコミックな歌かと思って笑い出した。
その笑いの中に“ヨイトマケ”、つまり土方仕事というものに対する色眼鏡が感じられた。
その職業に携わる若者達への軽蔑と優越感、それらが吹き出したその人達の笑いを卑しいものにしていた。
歌い進むうちに、その人達の表情は真面目なものに変わってゆき…最後にもう一度、冒頭と同じ掛け声をくり返したときには、笑いとは反対に涙になっていたという。
その後、自身のリサイタルで披露したことろ、親友の雪村いづみをはじめ、歌い手仲間達から絶賛され「自分にも歌わせて欲しい」と懇願されるほどだったという。
程なくしてテレビ出演の話が舞い込み、NETテレビ『木島則夫モーニングショー』(現在のテレビ朝日系)の“今週の歌”で紹介される。

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白のワイシャツに黒の細身のスラックス姿で登場し、戦後の復興期の貧しい少年から、高度成長期にエンジニアへと成長した凜々しい青年を歌い演じた彼の姿は、多くの視聴者の胸を打った。
放送後はNETの電話が鳴り続け、一週間後には二万通ほどの投書が送られきて、NET開局以来の反響となったという。
当時、同性愛者であることを公にしてから低迷していた彼は、この歌をきっかけに再び脚光を浴びることになったのだ。
世間からの注目と共にジャーナリスト達も騒いだ。

「これは歌謡曲とも違うし、シャンソンでもないし、一体これはどういうジャンルに属して、どういう名称で呼べばいいのか!?」

当時彼はこんな風に答えたという。
「ええ、何でもいいんですよ。勝手につけて下さい。歌は歌なんです。」
「僕は歌を枠の中へはめ込むのは可哀想な気がするんです。」


その結果“社会派歌謡曲”と名称がつけられた。
だが、彼はそれに対していささか不満に思っていた。
せめて“人生派”ぐらいにして欲しかったのに…。」
「僕は別に社会主義者でも何とか主義者でもない。強いて言えば、平等主義とでも言うのかもしれない。」
「貧しくても富んでいても、親が子を想い、子が親を想う、親子の愛情には何の違いもないのだから。」


そして、彼はこの歌に込めた“想い”をこんな言葉で結んでいる。
「それと、もうひとつ。滅びてゆく大正琴のようなあの人間関係の情緒を形にしておきたかった。」
「あの良き時代の、のんびりした姿を憶えているのは僕らの年代が最後なのではないか、と思ったから。」


この「ヨイトマケの唄」に関して、NHKでは発売当時から一貫して放送自粛の措置はとられておらず、彼本人による歌唱はもとより、様々な歌手によるカバーも放送されていた。
そして、歌の発売から47年が経った2012年12月31日。
歌手・美輪明宏は、この歌で『第63回NHK紅白歌合戦』に初出場した。
77歳での初出場は史上最年長、デビュー60年での初出場も史上最長記録であった。
歴代出場者全体の年齢から見ても、第40回(1989年)に満78歳で出場した藤山一郎に次ぐ歴代2番目の高年齢であるなど、様々な話題を呼ぶものであったが、本人は「この歌がヒットした1966年頃にも紅白出演のオファーがあったが、歌唱時間の問題で辞退した」と回想している。
当時の紅白では歌手1人につき3分以内という時間制限が設けられており、持ち時間の2倍の6分近くあるこの歌も大幅に歌詞を省略して歌うことをNHKから求められたが、美輪は「歌詞の省略はできない」と頑なに主張し、当時のオファーを辞退せざるを得なかったという。

そして、いよいよ紅白初出場の日。
楽曲はやや短くアレンジされたが、歌詞はフルバージョンでの披露となり、彼は普段の金髪や派手な衣装を封印し、かつてのショーボーイ的な落ち着いた風貌で歌唱した。
彼は、紅白の舞台での演出についてこう振り返っている。

「歌だけで勝負できる。」
「余計な照明などは何もいらないと言ったんです。」


その絶唱は全国で大反響を呼び、視聴率は異例の45.4%にまで達した。
放送後、インターネットサイト“2ちゃんねる”で多くの若者達が絶賛したことも話題となった。


<引用元・参考文献『紫の履歴書』著者:美輪明宏(水書房)より>



美輪明宏『BRAVA DIVA MIWA』

美輪明宏『BRAVA DIVA MIWA』

(2013/キングレコード)


美輪明宏『紫の履歴書』

美輪明宏『紫の履歴書』

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