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谷川俊太郎とプロテストソング②〜中島みゆきにデビューのチャンスを辞退させた詩「私が歌う理由」

2018.04.22

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1960年代、アメリカでは若者たちの間でフォークソング・ムーブメントの風が吹き荒れていた。
ベトナム戦争に対しての新しい反戦歌が次々に作られ、ジョーン・バエズ、バフィー・セントメリー、フィル・オクス、トム・パクストンなど、若いフォークシンガーたちは頭角をあらわしていた。
そんな中、ボブ・ディランの「Blowin’ in the Wind(風に吹かれて)」は時代を象徴する曲として多くの人々から支持された。
1963年5月に「風に吹かれて」をリリースしたディランは、同年8月にジョーン・バエズに誘われてワシントン大行進に参加し、特設ステージで「Only a Pawn in Their Game(しがない歩兵)」を歌った。
黒人の公民権運動活動家メドガー・エヴァーズが家族の見ている自宅前で射殺され、犯人の白人が陪審員全員が白人の法廷で“無罪”になるという実際の事件をもとにディランは「しがない歩兵」を作り、その中で、犯人もチェスゲームのポーン(歩兵)に過ぎないと歌ったのだ。
当時、公民権運動で歌われていた「We Shall Overcome(勝利を我等に)」も含め、それらの歌はプロテストソングと呼ばれた。






「風に吹かれて」のヒットにより“プロテストソングの旗手”として祀り上げられたディランだったが…「正面を切って歌っても通用しない」といち早く見抜いた彼は、一時期からプロテストソングを歌わなくなったという。
政治的なメッセージに対して“正面を切る”という手法を変えたディランと谷川にはある種の共通点があると言えるだろう。
小室等を筆頭に、詩人・谷川俊太郎が日本のシンガーソングライター与えた影響は計り知れない。
若き日の中島みゆきも、大学の卒論に「谷川俊太郎論」を書いたほど影響を受けていたという。
当時、彼女は札幌では有名なフォークシンガーとして“コンサート荒らし”と呼ばれるほどの存在だった。
1972年5月28日、彼女はニッポン放送主催の全国フォーク音楽祭全国大会に、北海道地区代表として出場する。
大会の1週間ほど前に、谷川俊太郎の「私が歌う理由」という詩を渡され、それに曲をつけるというのが課題になっていた。
その詩を目にした時に、彼女は大きな衝撃を受けたという。

「天狗になって舞い上がっていた自分が、谷川さんの詩を見た瞬間にガーンとやられたと思いました。」

何のために歌っているのか?歌とは何なのか?ということを強く自分に問い詰めはじめた彼女は最終審査まで昇り詰め、プロデビューのチャンスを与えられるも…辞退することとなる。
その後の彼女の作風、そして歌手としての運命を決めたのは、この一篇の詩との出会いによるものだった。

私が歌うわけは
一匹の仔猫
ずぶぬれで死んでゆく
いっぴきの仔猫

私が歌うわけは
いっぽんのけやき
根をたたれ枯れてゆく
いっぽんのけやき

私が歌うわけは
ひとりの子ども
目をみはり立ちすくむ
ひとりの子ども

私が歌うわけは
ひとりのおとこ
目をそむけうずくまる
ひとりのおとこ

私が歌うわけは
一滴の涙
くやしさといらだちの
一滴の涙


その後、彼女は大学で教員課程を取っていたため、母校の柏葉高校で教員実習を行う。
国語の実習にもかかわらず、彼女は壇上に立つと生徒たちに向かってこんな挨拶をしたという。

「私は将来、シンガーソングライターになるつもりです。実習に来たのは単位を取るためです。」

そしてギターを取り出して歌いだしたという。
谷川俊太郎の詩にショックを受け、自らを追い詰めて、いったんはデビューを断念したが…プロの歌手になるという情熱は失っていなかった。
そして1975年、ヤマハが主催するポプコン(ポピュラーソングコンテスト)での入賞を経て、彼女は念願のレコードデビューを果たすこととなる。


<参考文献『プロテストソング』小室等・谷川俊太郎(著)/旬報社>

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