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スティーヴン・タイラー少年時代〜チャビー・チェッカーと水着の女に感じたロックンロールとセックス

2018.09.02

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1948年3月26日、彼はアメリカ合衆国ニューヨーク州ニューヨーク市の最北端に位置する行政区ブロンクスの総合病院で生まれた。
アメリカが生んだ“ロックンロールバンドの最高峰”エアロスミスのボーカリスト、スティーヴン・タイラーの出生記録には複雑な血筋が綴られている。
彼の体にはイタリア系とウクライナ系ユダヤ人(当時はロシア)とインディアン(チェロキー族)の血が流れているという。
一家は彼が生まれてすぐにマンハッタンに引っ越している。

「124丁目とブロードウェイが交わる近くで、アポロシアターもそう遠くはない場所だった。ハーレムだ。人生最初の3年間の刺激が一番大事だというが、俺にとってはアポロシアターから聴こえてくる音は聖ペテロよりも魂があったよ。」


1951年、彼が3歳になった時に一家は再びブロンクスに戻った。

「ネザーランドアベニュー5610番のアパートメントだった。そこには俺が9歳になるまでいたな。最上階だったから眺めはよかったよ。夏の暑苦しい夜には、スパイダーマンのまねをして窓から非常階段に抜け出した。居間は魔法の空間だった。一角には親父のグランドピアノがどーんと置かれていた。ショパン、ドビュッシー、バッハ…毎日親父は3時間くらい練習していたよ。俺はピアノの下に潜り込んで、想像の世界を作り上げていたんだ。Dream Onのコード進行はその頃に聴いたものからきているんだ。」



名門音楽大学・ジュリアード卒の父親は、後にカーネギーホールで演奏するほどの音楽家だったという。

「ピアノは親父の愛人だった。奏でる音の一つひとつがまるで初めての口づけのように…親父は曲が自分のために書かれているかのように楽譜を読んでいたよ。」


1955年、彼が7歳の時にエルヴィス・プレスリーはRCAレコードと契約し、テレビに初出演した。

「ハウンドドッグにハートブレイクホテル!放射能を浴びたクモにかまれたような衝撃だった。まだ子供だったから当時はロックンロールが何なのかよくわからなかったけれど…宇宙人かと思ったぜ!」




1957年、彼が9歳の頃、一家はブロンクスからニューヨーク市のすぐ北に位置する街ヨンカーズに引っ越しをする。

「でっかい庭つきの私邸で、そこらじゅうに森が広がっていたんだ。家から2ブロックのところに貯水池があって、俺はそこで10代の日々を友達と魚釣りをして過ごした。家の裏にはスカンクやウサギ、そして鹿もいたぜ。罠を仕掛けて動物を捕まえて皮をはぎ、毛皮を売って小銭を稼いだもんさ。」


その頃、彼は毎週日曜になると教会で讃美歌を歌っていた。
教会の祭壇の下に神様がいると信じ込んでいたという。

「歌の力によって神様がそこに宿るんだと思っていたよ。その頃、俺はAMラジオを手に入れたんだ。そこから聴こえてきた曲はジョニー・ホールトンが歌う“All For The Love Of A Girl”だった。すべてラブソングに通じるようなバラードだ。幸福感、失恋、孤独、絶望…すべてが詰まっていた。俺はリンゴの木の下に座って何度も聴いたよ。」



「それからエバリー・ブラザースの“I Wonder If I Care As Much”のハーモニーを耳にした時は息ができなくなったぜ!10代の失恋ソングを彼らほど見事に歌いきった歌手は他にいなかった。あの胸を切り裂くようなアパラチア地方のハーモニー!5度音程の和音!神は第5音に宿るんだ!お産の瞬間を除いて、人が神にもっとも近づけるのはあの瞬間だろう!」



その1〜2年後…12歳になった彼は、本格的にロックンロールの洗礼を受けることとなる。
アメリカではチャビー・チェッカーの「Twist」が大ヒットしていた。
当時、唯一ビルボード誌のトップ100で2回首位となった曲である。

「あれは1960年の夏の出来事だった。家族と一緒にニュージャージーへ行き、チャビー・チェッカーを観たんだ。親の世代も観たがるほどの人気ぶりだった。その夜、彼の生演奏の他にもう一つ催しがあった。水着姿の女が馬に乗ったまま30フィートの飛び込み台から水槽にダイブする見世物だった。女と馬は完璧な跳躍で水槽に飛び込み、大きなしぶきが観客の服を濡らした。チャビー・チェッカーのパフォーマンスと、水着の女と馬の命知らずのジャンプが俺の頭の中で一つに溶け合ったんだ!それが俺が初めて体験したロックンロールの世界だった。俺は“Twist”の中にセックスを感じていたんだ。まだ女と寝たこともなかったんだけど、音楽の中にセックスが聴こえたんだ!最も原始的な本能…あの二つの光景は今でも忘れない!」



1963年、そして15歳になった頃…彼は自分が何をしたいか?はっきりとわかっていたという。
それは初めて本格的に触れる楽器との出会いでもあった。

「女のパンツの中に入り込むこと以外に俺を夢中にさせたものと出会ってしまったんだ。ドラムだ!友達の兄貴が地下室にドラムセットを持っていたんだ。こっそり降りていってそいつを目にしたとたん、俺は惚れ込んじまった。一目惚れってやつだ。鍋や釜じゃないんだぜ!その時、スネアの前に座ったのが運の尽きだ。翌日、俺はサンディ・ネルソンの教則レコードを買った。あの瞬間、俺は人生という偉大なゲームで凄いカードを引いたんだ。俺のラッキーカード!モノポリーの“保釈カード”だ。まるで魔法だった。黒人にとってのファンク、エルヴィスにとってのソウル…そんな音楽への鍵を俺も手に入れたんだ!」



<参考文献『スティーヴン・タイラー自伝』スティーヴン・タイラー(著)田中武人(翻訳)、岩木貴子(翻訳)、ラリー・フラムソン(翻訳)/ヤマハミュージックメディア>

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