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追悼・りりィ~哀切きわまりない「心が痛い」と、ヒット曲の「私は泣いています」

2016.11.11

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1952年2月17日に福岡県に生まれたりりィは、ロシア系アメリカ人の父と日本人の母との間に生まれたハーフである。
朝鮮戦争に従軍した父は彼女が生まれるまえに戦死したと聞かされて、りりィは母と祖父の3人家族で育った。

しかしその外見から「あいの子、あいの子」といじめられてきたという。
幼い頃から美貌であるがゆえに、周囲から妬まれてきたのだった。

一人でバーを経営していた母はそれを見過ごすことができず、差別感情の強い風土の町から離れて母子で東京に出て暮らす道を選んだ。

ところが小学校5年の時に祖父が他界した。
そして母もまた45歳の若さで、病気で亡くなってしまったのである。

17歳で天涯孤独の身となったりりィは、通夜の晩に母の遺体とともに泣き明かしたという。

その時の体験が、後に「心が痛い」という歌になる。

バーを経営してりりィを育ててきた母は、早くから娘に対して一人で生きていけるようにと教えてきた。
やがてシンガーを目指してスナックで弾き語りしていた頃に、浅川マキのプロデューサーだった寺本幸司と出会う。

最初に会った時の印象を、寺本はこう回顧している。

新宿東口の噴水前で、イラスト入りの詩を売ったり、歌をうたって得た何がしかで、ヒッピー暮らしをしているという、この18歳のハーフの女の子には、笑顔がなかった。


寺本はそのあと、最低限の生活費を補償して、1年ほどひたすら歌を作らせた。

りりィは20歳を目前にしていた1972年2月5日、浅川マキと同じ東芝EMIからアルバム『たまねぎ』でデビューする。
「心が痛い」は1973年7月5日、3枚目のシングル盤として発売になり、初めてオリコンのチャートに登場して最高72位となった。

「心が痛い」

作詞・作曲:りりィ

めずらしく街は 星でうずもれた
透みきるはずの 体のなかは
氷のように 冷たい言葉で
結ばれた糸が ちぎれてしまう

心が痛い 心がはりさけそうだ
なにも いわないで
さよならは ほしくないよ


前半は特徴あるハスキーボイスでバラード風にうたわれるが、「心が痛い」というフレーズからはサウンドが激変し、ロック的なアレンジになる。
そして歌声もまた亡き母を想う少女の身体の芯から、絞り出されるかのようなストレートな叫びとなった。



プロデューサーの寺本は1966年に日本初のインデペンデント・レーベル、「アビオン・レコード」設立に参加した時に浅川マキと出会った。
その後は小沢音楽事務所の小澤 惇、元ポリドールのディレクターだった松村慶子とともに、音楽出版ジュン&ケイを立ち上げると、1969年12月に寺山修司の構成演出による「浅川マキ深夜3日間ライブ」を新宿アンダーグラウンド・シアター「蠍座」で成功させた。

70年に浅川マキを東芝レコードからメジャー・デビューさせて、シングル「夜が明けたら」を出して注目を集めた後、ロングセールスを記録するアルバム『浅川マキの世界』でその名を知られるようになった。

その頃にスナックでビートルズをうたっていたりりィに出会うのだ。

ビートルズの「ミッシェル」と「イエスタデイ」だったけど、絶品もので寒気がするほどだった。


寺本は同年に音楽工房モス・ファミリィ(株)を設立し、りりィのマネージメントを手がけてアルバム『たまねぎ』を制作する。

そして「心が痛い」に続いて1974年3月にリリースしたシングル、「「私は泣いています」が大ヒットした。

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ロックスタイルがりりィにはふさわしいと考えていたという、寺本が書いた文章を紹介したい。

「私は泣いています」は、突然りりィの中に湧いて出てきた曲で、それまでのメッセージ・フォークやカレッジ・フォークと一線を画して、ブルース・テイストのロック路線をつき進んできた道筋とは、まったく異なるどちらかというと歌謡曲ともとれる、わかりやすい曲だった。
〈略〉
だが、りりィのこれまでのロック・スタイルは継承したいので、スージー・クワトロばりにベース・ギターを持って、この一曲だけは歌ってもらうことにした。ので、ジャケット撮影もベースを抱えてもらった。
3月5日に、鳴りもの入りでリリースしたら、もう3日目には、10万の追加注文がきた。
ちょうど、日本列島はオイル・ショックで経済的に落ち込んでいる時期で、新聞の一面に、トイレット・ペーパーやティッシュ・ペーパーを買い占める主婦たちの行列の写真が載り、「私は泣いています」なんて見出しが躍ったりしたこともあったのか、あっという間に、オリコン・チャートを駆けのぼり、小坂明子の「あなた」は抜けなかったが、実数87万枚の大ヒットとなった。




以前からりりィをリード・ヴォーカルという位置づけにした、パーマネントのバンドを作りたいという夢を持っていた寺本は、「私は泣いています」のヒットのおかげでそれを実現させる。

アレンジャーで元ジャックスの木田高介がキーボードで、ギターは土屋昌巳、ベースは吉田 建、ドラムには桑名正博のファニーカンパニーから西 哲也を呼び、パーカッションに斎藤ノブという布陣で「バイバイ・セッション・バンド」を結成した。

名前には、その日その日を一夜限りのセッションのつもりでプレイするというロック・スピリットをこめたつもりだった。
むろん、ステージでヒット曲「私は泣いています」は、後半の大事なところでやったが、あいかわらずラストは、「心が痛い」だった。
りりィは、メンバーと一つになって、ジャニスのように躰をきしませて「心が痛い」を歌いきった。


哀切きわまりない「心が痛い」と、わかりやすい「私は泣いています」は、女性シンガー・ソング・ライターの先がけとなるりりィを世に出した。

それと同時にプロデューサーの寺本も新しい音楽シーンに、確固たるポジションを築いていくことになるのだった。



(注)寺本幸司氏の文章の引用元は「大人のミュージックカレンダー」で2016年9月5日に掲載されたコラムです。

りりィのミリオンヒットした「私は泣いています」の発売から半年後、1974年9月5日に、「風のいたみ」というシングル盤が東芝EXPRESSレーベルからリリースされた
執筆者:寺本幸司
http://music-calendar.jp/2016090501

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