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冬のカナダを旅した中村八大がニューヨークに戻って作った「帰ろかな」(北島三郎)

2017.02.24

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1964年8月から家族を連れてニューヨークに移住した音楽家、中村八大は摩天楼がそびえ立つミッド・マンハッタンの高級アパートメントに借りた12階の部屋で、家族が寝静まった深夜から明け方にかけて北島三郎のための歌作りに取り組んでいた。

1961年から始まったNHKのバラエティ番組『夢であいましょう』のなかで、書き下ろしで毎月1曲を発表してきた「今月のうた」は、日本の新しい音楽をつくることに取り組んでいた中村八大が、何よりも大切にしていた仕事だった。
坂本九が歌った「上を向いて歩こう」、「遠くへ行きたい」(歌・ジェリー藤尾)、「こんにちは赤ちゃん」(歌・梓みちよ)、「夢であいましょう」(歌・坂本スミ子)といった日本の新しい歌が、そこから生まれてきていた。

そして「十一月にうたう」に選ばれたのが1年前にデビューして、大いに注目を集めていた若手演歌歌手の北島三郎だった。

北島三郎さん

中村八大はクラシックとジャズの出身で、それまでの歌謡曲にはないモダンな歌作りによって、音楽シーンにイノベーションを起こした音楽家。
北島三郎は渋谷の飲み屋街を拠点にして”流し”の歌うたいとして6年もの下積みを重ねたうえで、やっとデビューして「なみだ船」のヒットで脚光を浴びた演歌歌手。

ミスマッチングにも見える組み合わせは異例だったが、これは「なみだ船」を聴いた中村八大が伸びやかで艶のある歌声と確かな歌唱力に、強く惹かれていたから実現した企画だった。

もちろん北島三郎のために中村八大が作った「帰ろかな」は、演歌と呼ばれる音楽とは異なるモダンなサウンドの楽曲だ。

「帰ろかな」の前までは、まさか自分が八大さんの歌をうたうことになるとは思っていませんでした。
レコーディングは、とっても気持ちよく楽しくできましたけどね。
実は『夢であいましょう』の「今月のうた」でやるというだけで、レコーディングするのは、その直前まで聞いていなかったと思うんです。
自分は船村徹作品で行くんだという気持ちでしたし。
でもこの曲で、自分にはもう一つの色が出来ましたね。
いつだったか、『紅白』の大トリで歌うっていうんで、ビートを効かせたものにしました。
そうしたら、またすごい「帰ろかな」になって。
同じ歌がアレンジによって、こんなにスケールの大きなものになるんだなって感じたり、八大さんとの思い出はいろいろありますね。




六・八コンビのパートナーだった永六輔からは、すでに10月の段階でテーマと歌詞のメモが届いていた。
しかし中村八大が煙草の煙を唯一の友にして、マンハッタンで独りで創作に取り組んでいても、思うようなひらめきが出てこなかった。

「十一月にうたう(メモ)」
 
 帰って来い
 淋しくていうんじゃないけど
 帰って来い 帰って来い
 いやな奴でも離れりゃ気になる
 まして 気の合う仲間の一人
 帰って来いよ!

 
10月の後半に入って締切が近づいても、一向に完成する見通しは立たなかった。
そこで中村八大は10月25日に創作をあきらめて、「十一月にうたう」は準レギュラー出演者だったデューク・エイセスに、「あの涙」という予備の楽曲を歌ってもらうことにした。

それを仕上げて日本に送ってから、中村八大は北島三郎の歌作りに何らかの刺激がほしいと思って、友人とカナダ旅行を計画する。
行く先をニューヨークのにあるカナダのケベック地方にしたのは、海道から出てきて苦労して歌手になったという経歴、島三郎のイメージが頭のどこかにあったからかもしれない。

最初に向かったのはナイアガラの瀧だったが11月はすでに冬の閑散期で、ツアー・バスに乗り込んだ乗客はわずか3組6人だった。
アメリカ瀧とカナダ瀧をたっぷり見たときの印象を、中村八大は「ホテルの窓の外は風がビューと鳴っている。寒い々々、うすらさびしい感じが何ともいえない」と日誌に書き記している。

翌日は飛行機に乗ってモントリオールに行き、そこからバスでケベック・シティへと向かった。
そして数百年前に建ったお城の跡のようなホテル、〝ル シャトー フロンテナック”を拠点に仕事のアイデアを練った。

予定を延ばしてクエベックに連泊してニューヨークに戻ると、NHKから「十二月にうたう」の譜面を督促する電報が届いていた。
中村八大は締め切り日だった11月26日の夜になって、譜面に曲を書き始めると明け方前の4時には完成させた。
永六輔が書いてきた「帰ってこいよ!」というメッセージの歌詞は、「帰ろかな、帰るのよそうかな」と逡巡する心情の歌詞に変わっていた。

こうして男性と女性のコーラスがフィーチャーされて、和と洋のテイストが奇妙に混じり合った望郷の歌が完成した。

かつて坂本九というロカビリー歌手のユニークな個性と歌声に着目し、その特徴ある歌い方を想定して「上を向いて歩こう」を書いた時と同じプロセスである。
艶やかな声が特長の北島三郎にしか表現できない、独特の歌い回しや個性が発揮されることを期待していたのは明らかだった。

北島三郎がその期待に見事に応えることができたのは、10代の後半に東京声専音楽学校で1年9か月ほどクラシックの声楽を学んだ体験が生きたからだろう。
その当時、北島三郎が一番好きだったのは、ハリー・ベラフォンテに代表されるカリプソや、ブルーズなどアメリカの黒人音楽だったという。

だからニューヨークから送られてきた楽譜を読んだだけで、北島三郎は中村八大の意図を理解することができたし、楽譜には書かれていない歌の魂までをつかむことができたのだ。

「帰ろかな」は1965年の春にレコード化されてヒットして、暮れのNHK紅白歌合戦でも歌われたのだが、そこからの楽曲としての成長ぶりこそが、六・八コンビの作品ならではのものとなった。


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