1959年7月17日朝3時10分、ニューヨーク市ハーレムのメトロポリタン病院で、伝説のジャズシンガーとして名高いビリー・ホリデイ(享年44)が死去した。死因は腎臓の感染症と肺水腫とされている。
その美しい歌声の一方で、ドラッグに溺れ刑務所に服役するなど、激動の人生を送ったことでも知られた。10歳の時に強姦され、相手が白人だったために(彼女が被害者なのに)、逆に売春容疑で逮捕されるという理不尽な経験を強いられた。以来、自暴自棄になり、売春や麻薬にも手を染めていた。
1937年、22歳のビリーは、楽団の仕事を通じてサックス奏者レスター・ヤングと出会う。二人はお互いに辛い過去を持つ者同士として意気投合し、仕事仲間から飲み仲間となり、後には麻薬仲間になっていく。
心に傷を負いながらも、深い絆で結ばれていたレスター・ヤングとビリー・ホリデイ。互いを「プレス」「レディ」と呼び合い、気持ちを通わせた彼らのプラトニックな関係は、死が二人を分つまで続いた。
44年間の生涯の中で、約25年も歌い続けた音楽人生は、けっして順風満帆なものではなかった。キャリア初期には驚くほどハリがあった声も、多量のアルコール・麻薬摂取により、晩年は別人のように枯れてしまい、声量も失われていった。
──1941年、当時26歳だったビリーは、1930年代にハンガリー語から英訳された「Gloomy Sunday (暗い日曜日)」を歌った。それは自身最大のヒットとなった「Strange Fruit (奇妙な果実)」(1939年)に続く好セールスを記録した。こうして彼女は成功への階段を着実に昇り詰めていく。
そんな中、トロンボーン奏者であり麻薬の密売人でもあったジミー・モンローと関係を深め、母親と住んでいた家を出て結婚することとなる。
「私たちの結婚生活は長くはなかった。私が麻薬の虜になったことをジミーになすりつけようとは思わない。自分のしたことは自分で責任を持つべきだから。誰もがこの習癖の虜になる時は同じような経過をたどるものよ」
やがてビバップのトランペット奏者ジョー・ガイと出会い、彼の影響で今度はヘロインにも手を出すようになる。黒人として初めて立ったメトロポリタン歌劇場での晴れやかな舞台でも、デッカと契約を交わしたときも、ビリーはジョーの支配下にありヘロイン漬けだったと言われる。
「私はたちまちのうちにあの辺で最も稼ぎのいい奴隷の一人になりました。週に1,000ドルを稼ぎましたが、私にはバージニアで綿摘みをしている奴隷ほどの自由もありませんでした」
やがて周りでは「契約を守らない」「舞台に遅れる」「歌詞を間違える」といった悪評が囁かれ始める。ある日、ビリーは巡業先で、最愛の母サディの訃報を聞くこととなる。
それ以来、鬱状態に陥り、アルコールと麻薬への依存を深め、当時大掛りに行っていた『ビリー・ホリデイとそのオーケストラ』によるツアーも打ち切られてしまった。
1947年、32歳の時に大麻所持により逮捕される。同年、モンローとの離婚を機にジョーとも別れ、ウェストヴァージニア州オルダーソン連邦女子刑務所で8ヵ月間の服役生活を送る。
その際にニューヨークでのキャバレー入場証を失効してしまい、それから12年もの間キャバレーへの出演ができなくなってしまう。
1950年代はクラブや劇場で歌い続け、ノーマン・グランツのプロデュースによって多くの名盤を発表するが、ビリーの身体は次第に病魔に蝕まれていく。
亡くなる2年前(1957年)、42歳の時にマル・ウォルドロン・トリオを従えて、ニューポート・ジャズ・フェスティヴァルに出演する。
1959年3月、生前最後のアルバムとなった『Last Recording』を録音し終えた4日後(1959年3月15日)に、レスター・ヤングの訃報を聞くこととなる。その頃にはビリーの身体も病魔に侵され弱り切っていたのだが、他ならぬ友の旅立ちに“別れの歌”を贈ろうと葬儀に参列した。
埋葬のときにレスターの妻からビリーは歌うことを拒絶される。深い悲しみに彼女は泣き崩れ、葬儀からの帰り道にこう呟いたという。
「あいつら、唄わせてくれなかった。この次はあたしの番だわ」
4ヶ月後の7月17日、まるでレスターの後を追うように彼女もこの世を去った。



