「1971年頃だったかな…渋谷に“青い森”っていう、いわゆる今でいうライブハウスの前身みたいな所があったんだ。昼は喫茶店で、夜は生演奏をやっている感じ。当時俺は通いつめててね。そこで初めてRCサクセションと古井戸を観たんだ。とにかく強烈だった。RCと古井戸はね!凄まじかったね!それまで岡林信康とか高石友也を観て凄いなとか思っていたけれど、あの程度なら俺でもやれるだろうと、どっかで高をくくっていたわけ。でもRCはそう簡単にいかねぇなって思ったもんな。アコースティックでありながらロックなわけよ!ウッドベースなんかスリリングで、すんげぇソウルフルなんだよ!でさぁ、客に対する態度が悪いわけ(笑)可愛い顔してるのに、客を客とも思わないあの態度(笑)その辺も気持ちよくてね。」
1970年代初頭、日本では安保闘争・学生運動の熱が少しずつ冷めてゆく中、一部の若者たちの間には得も言われぬ敗北感と挫折感が漂い始めていたという。
そんな中、泉谷しげるのデビューアルバム『泉谷しげる登場』(1971年)が発売される。
本作は目黒区杉野講堂で開催されたコンサートの模様を収録したライブ盤だ。
スタジオレコーディングした作品ではなく“ライブ”にこだわってデビューを果たした泉谷は、当時の音楽シーンに鮮烈な爪痕を残した。
A面の1曲目を飾ったこの「白雪姫の毒リンゴ」は、まさに若き日の泉谷しげるを象徴する名曲として今もファンから愛され続けている。
作詞作曲は泉谷本人によるものではなく、門谷憲二(かどやけんじ)という長崎県出身の作家・作詞家が手掛けたものだった。
門谷は早稲田大学中退後、1971年にライブハウス(青い森と推測されている)で偶然出逢った泉谷しげると共に音楽制作集団“サイクル・ギス”を設立し、その事務所の代表を務めた人物である。
泉谷の他に仲井戸麗市“チャボ”が在籍した古井戸や、佐藤公彦“ケメ”が在籍したピピ&コットといったアーティストを抱えてマネージメント業をスタートさせる。
事務所設立直後に才能あふれる彼らのデモテープを製作したところ、自身も作詞作曲家としてエレックレコードに認められる。
現在まで1000曲を越える作品を残しており、2014年にはミステリー作家としてもデビューを果たしている才人なのだ。
この楽曲について泉谷はあるインタビューでこんなことを語っている。
「門谷も最初は自分で歌ってたりしてたんだけど、全然ダメでね(笑)そのうち人に曲を書くようになっていったわけ。当時は俺も曲がなかったから“まぁいいか”って感じで歌ってたんだけど、だんだん好きになってしまってね(笑)」
童話の中の白雪姫は継母(グリム童話初版本では実母)である王妃に何回も殺されかけ、とうとう毒リンゴを食べさせられて死んでしまう。
7人の小人たちが登場して物語が展開してゆき…最後には王子に助けられて白雪姫は息を吹き返す、という物語だ。
この曲で門谷が毒リンゴに喩えて描こうとしたものは何なのだろう?
泉谷はその謎めいた歌詞が気に入ったのだという。
「何て言うのかな…肝心な答えを“白雪姫の毒リンゴ”なんていう変な象徴にすっ飛ばしてた所が凄く気に入ったんだ。要するに直線的なようで全然直線的でないという面白さがあってさ。ハードな問題を歌っていながら、その回答はどっか他に…ディランじゃないけど、そういう所が好きだったね。歌詞が俺の体質に合っていたんだ。」
どんなに生活が豊かになっても、お金や物では量れないものもある。
僕たちに今一番必要なものは?
この歌の中に大切な何かが見え隠れしているような気がする…
<引用元・参考文献『わが奔走—IT’S MY LIFE』泉谷しげる著(ロックキング・オン)>
【佐々木モトアキ プロフィール】
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