「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

TAP the DAY

GSの「ザ・フローラル」に参加した後に「エイプリル・フール」解散を経て「はっぴいえんど」へ至る道

2019.04.01

Pocket
LINEで送る

1968年2月に結成されたGSの「ザ・フローラル」は、日本のモンキーズ・ファンクラブが公募したバンドだった。

彼らが所属するミュージカラー・レコードという会社から、8月にデビュー曲「涙は花びら」が発売された。
それはドノヴァンに代表されるブリティッシュ・フォークの雰囲気を持つクラシカルな曲で、人気イラストレーターの宇野亜喜良が作詞していた。
そしてテンプターズの「エメラルドの伝説」の大ヒットで、GSのヒットメーカーになった村井邦彦が作曲をした楽曲だ。

しかし宇野亜喜良のデザインしたコスチュームが話題になったものの、レコードは全く売れなかった。

gs_1331372698

シングル第2弾の「さまよう船」も不発に終わたフローラルは、新宿歌舞伎町のダンスホールや六本木のディスコで”営業”中心の日々を過ごすことになる。

やがてGSのアイドル路線にとどまりたいメンバーと、ニューロック路線に進みたい柳田ヒロや小坂忠らに方向性が別れたので、GSブームに見切りを付けた会社は本格的なロックバンドに進む方向へ舵を切ることにした。
そこで新たなベーシストとして白羽の矢が立ったのが、立教大学生だった細野晴臣である。

柳田博義の兄と「ドクターズ」というバンドを組んでいた縁で、ベースの腕とセンスを買われて細野がスカウトされたのだ。
小坂によれば、六本木のディスコに出演していたフローラルを見にきた細野を、ステージが終わってからこんな具合に勧誘したという。

ちょうどもらったばかりの給料袋があって、それを細野くんの目の前でちらつかせて誘ったんだよ。
いいだろ、毎月5万円は保証されてるよって見せるわけ。
そのころの5万円といったら、たいしたものだったんだ。
会社員の初任給が3万円くらいの時代だからね。


だが給料もさることながら、細野にはここでバンドに参加するための理由があった。

もちろん、5万円も大きな魅力だったけど、いちばん魅力的だったのは、新しいバンドにしてレコーディングすることがもう決まってるっていう話だったんだ。
『アルバムを1枚レコーディングしたい。そのためには新しいメンバーが必要だ』ってヒロに言われたの。


アーティスティックで新しいことをやりたいという夢を持っていた細野には、自分たちで思うようなレコードを作れることが大きな魅力だった。

ベースが細野に決まったので、次はドラムスを誰にしようかという話になった。
細野は当初、松本隆か林立夫のどちらかにしようと思っていたが、林はその頃に鈴木茂や小原礼とスカイというバンドを始めたところだった。
そこで松本に声をかけることにして、オーディションが行われることになった。

奇しくもその1年前に松本からオーデションすると言われて、細野がジミヘンの「ファイアー」と「紫の煙」を完コピして臨んだ時と、真逆のシチュエーションだった。

過去にGSのオーディションに落ちたことがあった松本は、「また落ちるだろうな」と思いながら演奏したという。
だがドアーズのナンバーを何曲か叩いてみて、「これなら使える」といわれて無事に合格した。

新生フローラルのリハーサルが始まったのは1969年3月だが、フローラルという名前がいやだった細野はメンバーのみんなといっしょに、思いつく英語の名前をあげていった。
「エイプリル・フールはどうだ」と細野が言うと、松本が「それでいこう」と返したのでバンド名が決まった。

メンバーは小坂忠(ボーカル)菊池英二(ギター)柳田博義(キーボード)細野晴臣(ベース)松本隆(ドラム)の5人。
4月1日から活動を開始した。
柳田の弾くオルガン主体の曲ではヴァニラ・ファッジやドアーズに近いサウンドで、ピアノ主体の曲ではブルース・ロックの影響が強く出ているバンドだった。


全曲オリジナルで英語詞が中心のアルバム・レコーディングは4月2日、エイプリル・フールの翌日からテイチクのスタジオを借りて始まり、約2週間で終了した。

その後、エイプリル・フールは新宿の花園神社に近い「パニック」や、六本木の「スピード」などのディスコに出演している。
ライブではドアーズ、クリームなどのカヴァーが主体で、サイケデリック・ロックやアート・ロックらしいインプロビゼーションで評判になった。

しかしエイプリル・フールがバンド活動にのめり込んだのは、レコーディングを含めてもわずか2ヵ月ほどの短い期間だった。

6月頃にはインプロビゼーション重視のロック・バンドを目指す柳田と菊池、音楽を幅広く捉える他の3人の間に溝が出来たのだ。
夏頃には「アルバム発売と同時に解散」というシナリオが、各々のメンバーのなかで確定的になったという。

細野はその頃のことを振り返って、こんな発言を残している。

毎日、同じスタイルで同じ曲をやってるわけだから、もう腕だけが動いてるわけ。
ちょうど自動車を運転するみたいに感覚だけでやってるの。
そうすると、それだけじゃつまらないから、何かが入ってきちゃう。
一種、神がかってきちゃうわけ。もうお神楽の世界だよね。
そうすると、もうレコードよりすごい演奏になっちゃうの。
そういう意味では、エイプリル・フールっていうのは、ライブのほうがレコードより良かったバンドなんだよ。


噂を聞きつけていろんな人が見に来た。
大瀧詠一、鈴木茂、林立夫もやって来て、時にはセッションになることもあったそうだ。

アルバム『Apryl Fool(エイプリル・フール)』は9月27日に発売になったが、残務処理的な仕事を終えてバンドは解散した。
最後のライブは10月26日、銀座のジャズクラブ「ジャンク」で人気が絶頂だった日野皓正クインテットとの対バンだった。

その翌々日、細野と松本は大瀧と鈴木を引き入れて「ヴァレンタイン・ブルー」を結成し、初ライヴを行った後に「はっぴいえんど」に改名する。



(注)本コラムは2015年4月1日に公開した「GSのザ・フローラルからエイプリル・フールを経てはっぴいえんどへ至る道」の改題、改訂版です。

Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

[TAP the DAY]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ