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マヘリア・ジャクソンを偲んで〜浅川マキも心酔したゴスペルの女王

2018.01.27

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まず…浅川マキが著書に残した言葉をご紹介します。
この体験をした当時、彼女はまだ29歳だったという。

1971年4月、60歳を迎えたゴスペルの女王マヘリア・ジャクソンが日本(渋谷公会堂)にやって来た。
記者や評論家の質問に対して彼女はこう言った。
「どうか、難しいことは聞かないでください。ただ私の歌を聴いて下さい。」
そしてこう付け加えて笑ったという。
「歌っている時、私の胸の中は空っぽなんです。」
10年前、初めてマヘリアのレコードを手にした時、その魂の歌は、ひどく私をがんばらせてくれた。
またある時は心を洗ってくれた。
しかし、生活に疲れはじめた頃…ひどく私の体の中を犯してきたのは、ビリー・ホリデイだった。
だからこの10年間、私はマヘリア・ジャクソンとビリー・ホリデイの間を揺れていたのかもしれない。
60歳になって日本にやって来たマヘリアがやはり偉大であったのを思えば、ビリー・ホリデイは最後まで“街の歌手”であったのだろう。
その時、マヘリアと写真を撮ったのだけれども、英語のよくわからない私は、ただ一言だけ口にした。

「おっかさん…」

マヘリアは喜んで私を抱きしめてくれた。



マヘリア・ジャクソン。
アメリカの音楽史において“ゴスペル界最高峰の歌手”として君臨した伝説の黒人歌手だ。
1911年、ルイジアナ州ニューオーリンズにあるウォーター街で生まれた彼女は、黒人、クリオール人(フランスもしくはスペイン系の移民)、イタリア人たちが共に暮す貧しい環境で育ちながら教会で歌い始める。
16歳の若さで単身シカゴへ移り住み、ゴスペルグループ“ジョンソン・ブラザーズ”のメンバーとして音楽キャリアをスタートさせる。
1937年、26歳にしてソロ名義で初の音源をリリースするが…売上は芳しくなかった。しかしこのレコーディングを切掛けに、音楽関係者たちから実力を認められるようになる。
その後はコンサート活動に専念し、暫くレコーディング活動から離れるが、1946年 (当時35歳)にアポロレコードと契約し、幾つかの音源作品をリリースする中、1948年に発表した楽曲「Move on up a Little Higher」のヒットによって(デビュー来初めて)商業的な成功を収めることとなる。
その後、アメリカだけにとどまらずヨーロッパでも知名度を上げながら、自身のラジオ番組を持つまでになる。
当時のことを彼女はこんな風に語っている。

「歌い手の中には尊大になり過ぎて、ファンの方が手紙を出しても本人に届かないほど遠い存在になってしまう人もいるけど、私には何故そんな風になれるのか理解できない。」

1960年代、ケネディ大統領の就任前夜祭でアメリカ国歌歌唱するなど、50代を迎えた彼女は益々歌手としてのステイタスを高めていった。
1963年8月、25万人の大群衆が集まった公民権運動(Civil Rights Movement)ワシントン大行進で、マーティン・ルーサー・キングJr.牧師の歴史的演説の直前に歌声を披露したのも彼女だった。


キング牧師の名台詞「I have a dream(私には夢がある)」は、当初予定されたものではなかったという。
演説がはじまってしばらくしたとき、近くにいたマヘリアがキング牧師に向かって「Tell’em about the dream(例の夢の話をしてよ)」と言った。
例の夢の話とは、2ヶ月前にキング牧師がデトロイトで演説したときに口にした言葉「I have a dream」のリフレインを用いたことを指していたと。
マヘリアは、キング牧師の演説が、格調は高いが原稿を読み上げるだけで活気がないことに気がついて機転をきかせたのだ。
マヘリアがかけた言葉は、周囲の数人にしか聞こえなかったが、キング牧師はとっさに原稿をかたわらに押しやると、視線を上げて(組織や運動の代表者としてではなく)個人として語りはじめたという。

「I have a dream(私には夢がある)」


7歳の時に母を失い、歌で食べていけるようになるまでには、彼女はメイドや洗濯の仕事、そして美容院や花屋の経営など様々な経験したという。
成功後も、日常的な黒人差別はもちろんのこと、シカゴで白人居住地域に一戸建てを購入したときに家に銃弾が打ち込まれることもあったという。
2度の離婚(2度目の夫とはその後復縁)も経験。
貧しい幼少期、苦労と差別の日々、成功へのチャンスをつかんだとはいえ、様々な辛酸をなめてきた彼女だったが…彼女はその哀しみ(ブルース)を歌にのせることはなかったという。
彼女は夜の酒場で唄うことをしなかった。
自分のスタイルを貫き、ゴスペルを歌うことに揺るぎない確信を持っていた。
 
「歌っているとき、私は時々涙を流すことがあるの。その時は皆さんが想像しているのとは違って、悲しいからではないの。貧しかった時代を思い出して…幸福な気持ちでいっぱいになるの。」

彼女は長い間、心臓病を患っていた。
公演旅行中に発作を起こすことも度々あったという。
1971年、初の来日公演を終えたあと、巡業先のドイツ(ミュンヘン)で倒れ、同地のアメリカ陸軍病院に入院。
その後、軍の飛行機で帰国し、長期の療養生活を送る。
ようやく身体の調子が少しよくなってきた頃、彼女は当時取り組んでいたユダヤ教会の買収問題の解決に向けて動き出そうとしていた…。
その矢先に患っていた糖尿病による心臓麻痺(心不全)をおこし、1972年1月27日の早朝、シカゴの病院で帰らぬ人となった。享年60。
最後に…生前、彼女が残した名言をいくつかご紹介します。
 

「ブルースは絶望の歌だが、ゴスペルは希望の歌だ。ゴスペルを歌うと重荷から解放される。罪が癒される気持ちになれる。」

「心の奥深くに何かがあり、その何かによって心が千々に乱れ、それを世の人に表現しなければならないときは、何ものもそれを止めることはできない。」
 
「手をつかわずして、どうしてAmazing Graceを歌えようか。手を使わずして、どうして天と地と、もろもろの神様の驚異を祈りをこめて歌えるというのだろうか。私は私の中にあるすべてを、手、足、そして私の体すべてに語ってもらいたい。」



<参考文献『マヘリア・ジャクソン自伝―ゴスペルの女王』彩流社>


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