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暗い日曜日─前編〜放送・販売・演奏が禁じられた“悲しみの歌”が辿った運命

2015.12.13

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暗い日曜日
両腕に花をいっぱい抱えた
私は私達の部屋に入った
疲れた心で
だって、私にはもう分かっていたのだ
あんたは来ないだろうと


「暗い日曜日」──この歌は1933年、ハンガリーの作曲家シェレッシュ・レジェーによって作曲された。
初めてレコーディングされたのは1935年で、ハンガリー語による「Szomorú vasárnap」の作詞はヤーヴォル・ラースローが手掛けた。
翌1936年、フランスのシャンソン歌手ダミアが歌ったことにより“シャンソンの名曲”として世界的に知られるようになった。
ちなみにダミアは1892年パリ生まれで、戦前3大シャントゥーヌ・レアリスト(現実派女性歌手)の筆頭と活躍した歌手である。
黒尽くめの衣装がトレードマークで“シャンソン界の悲劇女優”とも呼ばれていた。


作者シェレッシュは、自身の失恋体験を元にこの曲を書いたが、もともとは世間に発表するつもりはなかったという。
それはこの曲が至極私的なものであり、決して誰にも理解出来ないものだと考えたからである。
当時の音楽関係者が楽曲についてこんな言葉を残している。

「この旋律は悲しいなんていうものじゃない。そこには何か、底なしの絶望を強いるような力がある。」

「この曲はいかなる人に、いかなる喜びも与えることはないだろう。」


シェレッシュの予想に反して、この「暗い日曜日」は発表されて間もなく大ヒットとなった。
そんな“意外な成功”を喜んだシェレッシュは、すぐさま、曲を生むきっかけとなったかつての恋人に連絡したという。
これを機会に、もう一度よりを戻そうとしたのである。
しかし、そこで最初の悲劇は起きた。
シェレッシュからの連絡を受けたその女性は、翌日、遺体として発見されたのだ。
服毒自殺した彼女の手元には、一枚の遺書が残されていた。
その紙には一言だけこう記されていた。

「暗い…日曜日。」

後に、シェレッシュは作曲当時のことをこんな風に回想している。

「その時、私は成功と非難の間(はざま)に立っていた。作曲者として得た圧倒的な名声は、私を酷く傷つけた。だから私は、絶望する心の叫びの全てをこの曲にぶつけていた。そのせいで、この曲を聴いた人は、私が抱いた心の叫びを、自らの中に見いだしてしまうのかもしれない。」

彼女の自殺から少しだけの時間が流れ…騒動が一段落した頃、この「暗い日曜日」を流すことを自粛していたイギリスの放送局BBCはインストゥルメンタル曲という条件付きで、この「暗い日曜日」を放送することを決定した。
しかし、再び不可解な事件は起こった。
放送再開から間もないある晩のこと、ロンドン市警に一本の通報が入った。
それはアパート一室から、延々と同じ音楽が流れ続けているという奇妙な通報だった。
警官が現場に向かい、音楽が流れ続けるアパートのドアをノックしたが反応はない。
警官がドアを蹴破って部屋に入ると、そこには女性の遺体が横たわっていた。
そしてその遺体の側で、自動蓄音機が延々と「暗い日曜日」をリピートしていたのだった。
検死の結果、その女性の死因は鎮痛剤の過剰摂取だったという。
結局、この事件をきっかけにBBCは再びこの曲の放送を自粛せざるを得なくなり、イギリスでは今もその禁は解かれていないという。


その後もさらに、この歌にまつわる“事件”が次々と起こりだす。
1936年2月、ハンガリーのブダペスト市警が靴屋主人ジョセフ・ケラーの死亡現場を調査中、奇妙な遺書を発見した。
自殺したケラーが書き残したその走り書きのような遺書には、「暗い日曜日」の一節が引用されていたのだ。
自らの命を絶つ者が、辞世の句の代わりとして、愛する歌の一部を引用することは、特に珍しいことではないかもしれない。
しかし、この歌に限っては別だった。
後にハンガリーでは、この「暗い日曜日」のレコード販売と演奏が禁止となってゆくのだ──。



苦しさに耐えかねたら
私はいつか日曜に死のう
生命の蝋燭を燃やしてしまおう
あなたが戻ってきたとき
私はもう逝ってしまっているだろう

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