TAP the SCENE

アイ・ソー・ザ・ライト〜ハンク・ウィリアムス享年29。悲しみを歌い続けた真のスーパースター

2016.10.08

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誰もが闇を抱えて生きている。
やりきれない怒り、悲しみ、後悔……。
僕がすべて歌にするよ。
そうすれば、みんなが辛いことを忘れられるだろ。
辛さは全部引き受ける。


ロックンロールの登場によってすべてが塗り替えられてしまう前夜、1953年のこと。これからの活躍が最も期待されていた29歳のカントリー・シンガーが他界した──その名はハンク・ウィリアムス。エルヴィス・プレスリーがまだ南部の名もなき青年だった頃、ハンクこそがスーパースターの未来だった。

アラバマ州の母子家庭で育った幼少時代のハンクは、貧しい生活の中で音楽という光を見る。8歳の時に母親にギターを買ってもらうと、路上で黒人の流し歌手にギターを習った。多感なハンクは路上演奏者から技巧や歌唱を吸収していった。そしてブルースやゴスペルといった黒人音楽、カーター・ファミリー、ビル・モンロー、ロイ・エイカフといったカントリー音楽の先駆者たちにも耳を傾けた。

才能はすぐに開花して、地元のコンテストで優勝したり、ラジオ局で自分の番組を持つようになった。まだ10代半ばのことだ。その後、自身のバンドであるドリフティング・カウボーイズを結成し、母親がマネージメントを買って出た。学校、ダンスパーティ、酒場などで演奏する日々を送っていく。第二次世界大戦の影響でバンド稼業を休止して、造船会社で働いたこともあった。

1947年にレコード・デビュー。「ムーヴ・イット・オン・オーバー」がカントリー・チャートの4位を記録する。1949年には初のナンバーワン・ヒット「ラヴシック・ブルース」を放つと、念願のグランド・オール・オプリ(カントリーの音楽の聖地)の出演を果たしてレギュラーメンバーとなる。スターに登りつめたのだ。

彼はカウボーイ・ハットとウエスタン・ファッションという見た目でも有名になった。南部育ちの男に西部とのつながりは最初からなかったが、自身のバンド名に象徴されるように“古き良き西部”への憧れが強くあったようだ。

それからのハンクは来る年も来る年も、カントリーのアウトローとして後にスタンダードとなる名曲を作ってヒットさせ続けた。「ロング・ゴーン・ロンサム・ブルース」「なぜ愛してくれないの」「コールド・コールド・ハート」「ヘイ・グッド・ルッキン」「ジャンバラヤ」「泣きたいほどの淋しさだ」「ユア・チーティン・ハート」など、たった6年間の録音活動の中で放ったトップ10ヒットは、何と35曲(うち11曲が1位)を超える。

だが栄光と成功の影で、長年の飲酒問題が仕事を脅かしていた。生まれた時から脊椎の欠陥を患い、背中の痛みを和らげるために酒の力を借りていたのだ。アルコール依存はクリエイティヴな才能と家庭生活を衝突させ、混乱した精神状態を招くようになる。そしてその先には死が迫っていた……。

『アイ・ソー・ザ・ライト』(I Saw the Light/2014)は、そんなハンク・ウィリアムスの半生を映画化したもの。音楽と女性、家庭と飲酒の狭間で苦悩葛藤する姿が描かれた、伝説の“キング・オブ・カントリー”の体臭と体温がスクリーンいっぱいに感じられる見応えあるドラマ。タイトルはハンクが作ったゴスペル/セイクレッドソングからつけられている。

フォーク・ミュージックやヒルビリーには心がある。偽りがない。
悲しい曲を歌う奴は、悲しみを知っている。


1953年の死後に名声はより高まっていく中、伝説の男が生んだ音楽は、その後エルヴィスやジョニー・キャッシュ、ボブ・ディラン、キース・リチャーズをはじめ、偉大なミュージシャン達へ受け継がれた。そういう意味でも彼は“最初のロックスター”であり“ルーツ・オブ・ロック”だった。

悲しみの歌を作り続けたハンク・ウィリアムス。荒れた生活の中で唯一の安らぎは、子供(上の写真は息子のハンク・ウィリアムスJr.)と一緒に過ごす時間だったに違いない。

予告編


貴重な本物のハンク・ウィリアムスの映像


*日本公開時チラシ
170713_1
映画『アイ・ソー・ザ・ライト』公式サイトはこちら

*参考文献/『カントリー・ミュージックの巨人』(東亜音楽社)、パンフレット『アイ・ソー・ザ・ライト』

評論はしない。大切な人に好きな映画について話したい。この機会にぜひお読みください!
名作映画の“あの場面”で流れる“あの曲”を発掘する『TAP the SCENE』のバックナンバーはこちらから

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