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ローリング・ストーンズを作った男、ブライアン・ジョーンズの死を悼んだ追憶のハイドパーク

2015.07.05

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1969年7月5日、ロンドン中心部に位置するハイド・パークには、全英中から25万人以上もの若者が集まってきた。

その日はローリング・ストーンズのフリー・コンサートが予定されていた。
だがステージに現れたミック・ジャガーは19世紀ロマン派の詩人、シェリーの詩を朗読し始めた。

ハイドパーク ローリング・ストーンズ

彼は死んでいないし眠ってもいない
生命の幻想から目覚めたのだ
無益な争いを続ける我々を現実の世界に残した
狂気の中で刃をふるう我々を
無益な現実に残した


彼とはローリング・ストーンズを作った男、ローリング・ストーンズを追われた男、ブライアン・ジョーンズである。
自宅のプールの底に沈んでいるブライアンが発見されたのはわずか3日前、7月2日の深夜のことだった。
享年27歳。

ブライアンがピアノ・プレイヤーのイアン・スチュアートと二人で、R&Bのバンドのメンバーを集めたのは1962年のことで、そこで選ばれたのがミックとキース・リチャーズだった。

やがてビル・ワイマンとチャーリー・ワッツが加わって、6人組のバンドが誕生した。

ローリング・ストーンズ 

ブライアン・ジョーンズが、ブルース・バンドを結成したくて、それぞれのメンバー1人1人に声をかけたんだ。彼がザ・ローリング・ストーンズと名付けた。彼が音楽を選び、彼がリーダーだったんだ。


ビルがこう語った通り、結成時からメンバー選びやライブの交渉、選曲にいたるまでバンドの一切を仕切っていたのはブライアンだった。

しかしレコード・デビューを期にマネージャーの職に就いたアンドリュー・オールダムは、ビートルズのような人気バンドを目指して、ルックスが良くないイアンをメンバーから外した。
それから5人組のバンドとして、デッカ・レコードと契約したのである。

ストーンズを愛するイアンはそんな処遇にもめげることなく、ロードマネージャー兼キーボーディストとして、バンドと一緒に働く道を選んで死ぬまでずっと行動を共にする。

野心満々の戦略家だったアンドリューはストーンズの人気が出てくると、レパートリーにおいてもブライアンが主張するR&Bのカバー曲より、多額の著作権印税の収入が入ってくるオリジナル曲を優先していった。

ミックとキースによる曲作りが始まると、全米1位になった「サティスファクション」を筆頭に世界的なヒット曲が続々と生まれた。
当然のことだがミックとキースの作る楽曲が、その後のストーンズの方向性を主導していくことになっていく。

リーダーの役割を奪われたブライアンは出る幕が減ってしまい、現実逃避のためにドラッグへの依存度が激しさを増した。
そこに警察に目をつけられて逮捕されるなどのストレスがかかり、新しいドラッグを次々に試していったために平常の状態でいられることがなくなった。

Dennis Hopper Photography Brian Jones 1965

スタジオでのレコーディングに姿を見せないことも増えたが、その一方ではあらゆる楽器を扱うマルチ・プレイヤーとして才能を発揮し始めた。

「まともな状態でいるときは、頭の回転も動きも信じられないくらい速いんだ。周囲に転がっている楽器を掴んで、とてつもない音を生み出す」と、キースはその才能には舌を巻いていた。

「黒くぬれ(Paint,It Black)」ではインドのシタールを弾きこなし、アレンジでヒット曲に貢献した。
「アンダー・マイ・サム(Under My Thumb)」ではマリンバを叩き、「レディ・ジェーン(Lady Jane)」ではダルシマーを奏でて、楽曲に独特のニュアンスを加えてサウンドを彩った。

古楽器や民族音楽を奏でるブライアンの才能によって、ストーンズのサウンドは飛躍的に深みがましたのだ。


だが慢性的なうつ病は日増しに悪化して、レコーディングに来ても演奏に参加できないほどで、そのうちに休養と入院を繰り返す状態になった。

静かな生活を求めてロンドン郊外のコッチフォード農場に住むようになったのは、1968年の晩秋から冬にかけてのことだ。
にもかかわらずロンドンの街をうろついては、プレイボーイ・クラブなどで時間を潰して身も心もぼろぼろになっていくばかりだった。

ビルは伝記でこう述べている。

ブライアンの内部でかちかち時を刻んでいた時限爆弾は、いよいよ爆発の時を迎えてしまった。この2年ほどのあいだ、あいつは身体をこわし、ドラッグで逮捕されたことで打ちのめされていたばかりでなく、ストーンズの中にあっても、寂しく、孤独で、見るからに悲しそうだった。


バンドの話し合いの末にローリング・ストーンズから解雇することが決まったのは、ブライアン抜きで進められていたアルバム『レット・イット・ブリード』のレコーディングが終わる寸前、69年6月のことだ。

メンバー内ではすでにブライアンの後継者選びが行われ、レコーディング・セッションに呼ばれた若きギタリスト、ミック・テイラーが最適の人材に選ばれた。
ミックを推薦したのはロードマネージャーのイアン・スチュアートだった。

テイラーはメンバーたちとも波長が合ったことから、翌日は重要な曲のレコーディングに参加した。
明け方近くまでかかって完成した「ホンキー・トンク・ウィメン」は、レコーディングの場にいた全員がシングル盤としての勝利を確信する会心の出来となった。

まさにブライアンとの別れが迫っていたちょうどその頃、こんなにもすばらしい曲をおれたちが収録し終えたなんて、なんとも皮肉で、悲劇的だった。


バンドから解雇するという事実を伝えるために、ビルとミック・ジャガーがコッチフォード農場を訪れた。
ブルースに焦がれて自分が作ったバンドを解雇されたブライアンは、ストーンズの音楽にそれほど未練はなかったように見えたという。

その2週間後に起こったプールでの死が、はたして事故だったのか、自殺だったのか、はたまた他殺だったのか、今もって明らかになってはいない。

ミック・テイラーを新メンバーとしてお披露目する予定だったフリー・コンサートは、急遽、ブライアンの追悼ライブになった。
そしてイギリスで7月4日、アメリカでは7月5日にリリースされた「ホンキー・トンク・ウィメン」は、期待通りにシングルチャートの1位を記録したのだった。



(注)本コラムは2014年2月22日に公開した「追憶のハイドパーク」を、大幅に加筆訂正したものです。

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