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ジミー・ペイジ27歳〜築200年の石造建物でのレコーディング、前代未聞の“無題アルバム”を発表

2018.10.27

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ジミー・ペイジといえば…1970年代に“最も成功したロックバンド”レッド・ツェッペリンの中核を担ったギタリスト兼リーダーである。
若い頃からアートスクールとの二足の草鞋でセッションギタリストとして活躍し、ジョー・コッカーのバックバンド、ニコのプロデュース、ザ・フーのレコーディングへの参加、ヤードバーズへの加入を経て、1968年にレッド・ツェッペリンを結成する。



1971年1月9日、彼は27歳の誕生日を迎えた。
その頃バンドは、4枚目となるアルバムのレコーディングに突入した矢先だった。
デビュー以来、3年間に3枚のアルバムを連続でヒットチャートに叩き込み、コンサートでは世界中で興行記録を塗り替えていた彼らは、これまでの作品を凌ぐものを作りたいという野心を燃やしていた。
ジミーは当時のことを鮮明に憶えているという。

「まずはロンドン西部にあるアイランドスタジオでのセッションから始めた。その後、3rdアルバムで使用したヘッドリィ・グランジにローリング・ストーンズの車載スタジオを借り入れて録音をスタートさせた。一流エンジニアのアンディ・ジョンズを雇い、築200年の石造建物を世界最大級のレコーディングブースに作り変えたんだ。俺達が目指したのは、従来のレコーディングスタジオから作られるサウンドじゃなかったんだ。四角い部屋の標準的な響きじゃ嫌だったから、アンプやマイクを階段口や戸棚など、家のあちこちに動かして新しいレコーディング空間を作りだしたんだ。それは間違いなく聴き手の潜在意識に影響をおよぼすことなんだ。それは俺達が1stアルバムのころからずっと展開してきたアイディアなんだけどね。ヘッドリィでの作業でさらに“次の階段”に進むことに成功したんだ。」



そこはロンドンから2時間ほど離れたイングランドのハンプシャー州ヘッドリィ村にある古い建築物だった。
1795年に近隣教区の救貧院として建てられたという。
19世紀後半から個人所有の邸宅となり、数度持ち主を変え、1961年から空き家となっていた。
旅行者や学生のための宿泊施設として利用されながら、それまでフリートウッド・マックなどがリハーサルスペースとして使用していたこともあった場所である。
豪勢というにはほど遠かったが、野趣溢れた雰囲気はジミーの好みだったという。

「古い古いその建物には、何か“気配”があったんだ。普通の快適な暮らしでは得られない特別な時間が流れているんだ。じめじめして薄気味悪くて、寝室のシーツは湿っぽかったよ。ロバート・プラントとジョン・ボーナムはビビリまくってたよ(笑)実際、なにか“憑き物”がいたのはまず間違いないと思うよ。ある夜、階段の上で灰色の影を見たりもした。でも俺達があそこでレコーディングすることによって、空気が軽くなっていったのを憶えている。建物が持っているエネルギーに俺達が新しい命を吹き込んだんだ。」



その年の暮、アトランティックレコードの幹部達は、期待に胸を膨らませていた。
レッド・ツェッペリンの新譜が完成し、関係者からは「とんでもない大作が仕上がった!」と聞いていたからだ。
うまく行けばクリスマスに間に合うというタイミングだった。
しかし…レーベル内に溢れかえっていた浮かれ気分は、バンドの手強いマネージャー、ピーター・グラントの“ある宣言”によって、あっという間に萎んでしったという。

「今回、レッド・ツェッペリンはアルバムにタイトルを付けず、外ジャケットにはバンドの名前を一切出さず、レコード会社の名前もカタログ番号も参加ミュージシャンのクレジットも載せないと決めた。」


アトランティックは仰天した。

「無題だって?クレジットなしだって?一体どういうことなんだ!それじゃ商品として売り出すときに、どうすればいいんだ!」


ジミーは当時の心境をこう回想する。

「周りからは“それは職業上の自殺行為だ”と言われたよ(笑)でも、あのアイディアはレコード会社を敵に回すために考えたものじゃないんだ。あれは音楽評論家に対する俺達からの回答だったんだ。連中は最初の3枚のアルバムが売れたのは“派手な宣伝・煽りのなせるわざで才能じゃない”と言い続けてきたからね。俺達としては、ツェッペリンの人気を高めたのは音楽であって、名前やイメージとは関係ないと実証したかったんだ。」


彼らは表面的なものを取り去って、音楽にすべてを語らせようとしたのだ。
そして…その古い建物から生まれた音楽は、ポップス史に大きな足跡を残すこととなった。
1971年11月8日にリリースされたその“無題”の4thアルバム『LED ZEPPELIN IV』は、アメリカだけでも2,300万枚を売り上げ、バンドのキャリアにおいて“最も売れたアルバム”として金字塔を打ち立てたのだ。


また、彼らは1971年と、1972年に来日公演を果たしており、71年の広島公演の時に平和記念資料館を訪れたという。
その時、ジミー(当時27歳)は「二度と戦争は起こしてはいけない。少しでも苦しんでいる人達のために自分達が力になれたら。」と涙ながらに語ったという。
広島でのコンサート(9月27日)は、100%慈善公演として行なわれ、終演後、彼らは広島市役所を訪問し、当時の山田節男市長に被爆者援護資金として当時の金額で約700万円寄贈の目録を手渡している。
同市長からはツェッペリンのメンバー達に感謝状と、記念として名誉市民章のメダルが授与された。


<参考文献『奇跡―ジミー・ペイジ自伝』ブラッド トリンスキー(著)山下えりか(翻訳)/ ロッキングオン>

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