2007年にパティ・スミスがリリースしたカバー・アルバム『トゥウェルヴ』には、ドアーズの「ソウル・キッチン」が収録されている。
その理由についてパティは、夢の中で熾天使から「ソウル・キッチンをやらなきゃだめだよ」と告げられ、起きて外に出たら、ゴミ清掃車のラジオから「ソウル・キッチン」が聞こえてきたからだと説明している。
パティ・スミスが家族に別れを告げ、ニューヨークへとやってきたのは1967年の夏、20歳のときだった。
それまで故郷の工場で働いていたパティだったが、アートの世界で生きていきたいという夢を諦めることができなかったのだ。敬愛する詩人、アルチュール・ランボーの詩集を手に単身ニューヨークへとやってきたパティは、書店のレジという仕事を見つける。
そして同じ夢を持つ画家の卵、ロバート・メイプルソープと出会うと、2人は意気投合して一緒に暮らすようになるのだった。
そんなパティが初めてドアーズのステージを観たのは、1968年のことだった。
ドアーズが出演するライヴハウス、フィルモア・イーストでアルバイトをしていたロバートが、パティのためにスタッフ用のパスを用意してくれたのだ。ドアーズの1stアルバムに夢中になっていたパティにとっては、願ってもないチャンスだった。
ところがライヴが始まるとパティは興奮するどころか、むしろ冷静にジム・モリソンを観察するのだった。人前で歌ったことがあるわけでもないのに、もしかしたら自分にも同じことができるのではないかと思ったのだという。
どうしてそう思ったのかはわからない。私の経験からは、それが可能だと思わせるものはないはずなのに、奇妙な自信が私の中に生まれた。(『ジャスト・キッズ』パティ・スミス著)
ニューヨークへやって来た頃は絵を書いていたパティとロバートだったが、やがてパティは詩人としての道を、ロバートは写真家としての道を進み始める。
そして1971年。
この年、パティは初めて人前でエレキギターの演奏をバックに詩の朗読をする。それはパティの詩がロックと融合した瞬間だった。
朗読会は評判となり、詩集の出版の話も舞い込んできた。パティは浮足立つのを感じながら、同時に迷いを不安を抱いたという。
そんなある日、ドアーズのニューアルバム『L.A.ウーマン』の看板が目に止まり、今の自分があるのはジム・モリソンのおかげだということを思い出した。
ジム・モリソンがいかに自分に大きな影響を与えてきたのか、ということを忘れかけていた。彼こそが私に、詩とロックン・ロールを融合させてみようと思わせた人物なのに、と申し訳ない気分になった。
ときおり音楽誌でレコードのレビューを書いていたパティは、ドアーズのレコード評を書くことにした。ジム・モリソンがパリで亡くなったというニュースが届いたのは、その矢先のことだった。
パティは1977年のインタビューで、「彼の死は他の誰よりも私を悲しませた。彼は本当に偉大な詩人だった」と答えている。
2年後の1973年、パティはジム・モリソンを追悼する朗読会を主催し、10月にパリを旅行したときにはジムの墓参りをした。
パリから戻ってしばらくすると、パティはジムと同じようにバンドをバックにして歌い始め、1975年に1stアルバム『ホーセス』でデビューを果たす。
その中の1曲、「ブレイク・イット・アップ」は、夢の中に出てきたジム・モリソンを題材にして書かれたものだが、そのタイトルはジムが「向こう側へ突き抜けろ」と叫ぶドアーズの「ブレイク・オン・スルー」を思い出させる。
♪断ち切れ ああ、今わかったわ
断ち切れ 私も行きたいのよ
断ち切れ お願い、一緒に連れていって
参考文献:
『ジャスト・キッズ』パティ・スミス著/にむらじゅんこ 小林薫訳(アップリンク)
『パティ・スミス完全版』パティ・スミス著/東玲子訳(アップリンク)
『パティ・スミス 愛と創造の旅路』ニック・ジョンストン著/鳥井賀句訳(筑摩書房)


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