クリーム、ブラインド・フェイス、デレク・アンド・ザ・ドミノスと、次々にバンドを変えながらも、その度に大きな成功を得てきたエリック・クラプトン。
しかし、決してのめり込むまいと思っていたヘロインの使用頻度が増えていき、気がつけばガールフレンドのアリスと共にドラッグとアルコールに溺れる日々を送っていた。
(詳しくは「エリック・クラプトン〜愛の告白の失敗と悲劇に取り憑かれた数年間」で)
ステージに上がったのは1971年の6月、ジョージ・ハリスン主催によるバングラデシュ・コンサートが最後で、表立った音楽活動は完全に止まっていた。
(詳しくは「バングラデシュ・コンサートを成功に導いたミュージシャンたちの想い」で)
そんな2人を心配して動いたのがピート・タウンゼント、そしてアリスの父であるデヴィッド・ハーレック卿だった。
ピートは、クラプトンが隠遁生活を送っていたときに会っていた数少ない人間の一人だ。きっかけはクラプトンが曲を完成させるのを手伝ってほしいとピートに相談したことだった。家を訪ねたピートは、クラプトンとアリスの状態を知って心配になり、それ以来幾度とクラプトンのもとを訪ねていた。
アリスの父であるハーレック卿は、ワシントン駐在イギリス大使という経歴を持つ上流階級の人間だが、音楽に対する深い愛情があり、クラプトンとも音楽を通じて仲がよかった。それだけに娘同様、クラプトンのことも人一倍心配していた。
ヘロイン漬けの生活を続けていたら、いつ命を落とすか分からない。一刻も早く立ち直って欲しいと考えたハーレック卿は、後援する予定だったイギリスのEC加入を祝うコンサートを、クラプトン復活の舞台にしようと考える。
早速ピートに連絡をとり、コンサート実現のために協力してほしいとお願いするとピートは快諾し、2人はクラプトンの復活コンサート実現に向けて動き出した。
コンサートの話を切りだされたクラプトンは、アリスを巻き込んでしまったことへの後ろめたさ、音楽への純粋な想い、そして信頼する2人の企画ということで、出演を了承する。
クラプトンのバックを務めるメンバーは、ピートによって集められた。フェイセズのロン・ウッド、ファミリーのリック・グレッチ、そしてトラフィックのスティーヴ・ウィンウッドとジム・キャパルディという盤石の布陣だ。
この即席バンドは「パルピテーションズ」(鼓動、動悸といった意味)と名付けられた。リハーサルはロニーの家で行われ、コンサートに向けて着々と準備は進められていく。
1973年1月13日、久々のクラプトンによるコンサートとあって、会場のレインボー・シアターには多くのファンが集まった。客席ではジョージ・ハリスン、リンゴ・スター、エルトン・ジョン、ジミー・ペイジ、ジョー・コッカーなど、多くのミュージシャンたちがクラプトンの復活を見守っていた。
オープニングを飾ったのは「いとしのレイラ」、のっけからクラプトンとロン・ウッドによるギター・ソロの応酬が展開し、客席からは熱い歓声があがった。
その後は、クリームの「バッジ」やブラインド・フェイスの「プレゼンス・オブ・ザ・ロード」といった自身のナンバー、そしてジミ・ヘンドリックスの「リトル・ウィング」、ロバート・ジョンソンの「クロスロード・ブルース」などを披露した。
ピートは、バンドの状態も会場の雰囲気も最高だったと自伝に記している。
「ザ・フーのときと同じアドレナリンの噴出を感じ、おかげでその夜演奏されたすべての音符を楽しんだ。
フィナーレに近づくと、ステージそのものが天に昇っていくような気さえした」
このときクラプトンの状態は決して万全ではなかった。1年半というブランクは大きく、頭の中にイメージがあっても指がついてこなかった。それでも、「この素晴らしいバンドが、私の演奏を現状での限界まで押し上げてくれた」という。
会場はクラプトンの復活を祝福するムードに包まれ、クラプトン自身もまた心の底からコンサートを楽しむことができた。クラプトンが完全復活するまではさらに1年を要することになるが、このコンサートはその大きな1歩となった。
参考文献:
『エリック・クラプトン自伝』エリック・クラプトン著 中江昌彦訳 イーストプレス社
『ピート・タウンゼント自伝 フー・アイ・アム』ピート・タウンゼント著 森川義信訳 河出書房新社
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