ボブ・ディラン、ウィリー・ネルソン、エミルー・ハリス、U2、ニール・ヤング…
そんな大御所アーティストたちの作品を手掛けてきた男ダニエル・ラノワ。
故郷カナダの小さな町から出発して、世界でトップクラスの音楽プロデューサーとなった彼は、シンガーソングライターとして、そしてギタリストとしても素晴らしいキャリアを重ねてきた人物だ。
音楽関係者の間では、こんな言葉と共に高い評価を得ている。
「スキルを超えて、予算を越えて、イメージとエゴを超えて…彼の仕事と音楽は、
献身と魂の価値を示してくれる。」
伝統と革新の完璧な調合を一生懸命に追い求める彼を、多くのアーティストもリスペクトしているという。
1998年、ウィリー・ネルソンはダニエル・ラノワをプロデューサーに迎えた45枚目のスタジオ録音アルバム『Teatro』を発表した。
全14曲、珠玉の楽曲が並ぶ中、ダニエルの作詞作曲による「The Maker」という曲が収録された。
その曲のレコーディングにはエミルー・ハリスも参加しており、素晴らしいテイクを残している。
さかのぼること14年…1984年、ダニエルはU2の4theアルバム『The Unforgettable Fire(焔)』のプロデュースを依頼され、アイルランドのダブリンに長期滞在しながらレコーディング作業を行なっていた。
「当時、私は毎晩スタジオの近くに流れるリフィー川の堤防を歩いてホテルまで帰っていた。あの川は黒いインクのような水を波止場の倉庫地域に流し込もうとしているようだった。夜には黒い水面が鏡のように見えた。川に映った自分の姿に問いかけながら、私は“The Maker”という曲を紡いだ。」
ああ深い水よ 夜のように黒く冷たく
私は両手を大きく広げて立っている
私は曲がりくねった道を走ってきた
神(創造主)の目の中で 私は見知らぬ者
私は見ることができない…目の中の霧のせいで
私は感じることができない…人生の中の恐れのせいで
生死の鏡の向こう
遠くに光が見える
洗礼者ヨハネが私の方へ歩いてくる
神(創造主)と一緒に
「この歌詞はダブリンを流れる川から生まれた。15年後にウィリーカヴァーしてくれるなんて…当時は想像もしなかったよ。そのおかげで“私的”でスピリチュアルなこの曲が多くの人々に知られることとなったんだ。」
1997年、ダニエルはウィリー・ネルソンから新作アルバムのプロデュースの依頼を受ける。
彼はラスベガスでツアーの千秋楽を終えたウィリーのバスに同乗して、カリフォルニアまで戻る間の時間にアルバム制作の打ち合わせをすることにした。
ウィリーはまず最初に、いつも持ち歩いているという小さなロケットに入った息子の写真をダニエルに見せて、どれほど愛しているかを語ったという。
そのバスには、2年前にダニエルがプロデュースを手掛けたエミルー・ハリスも同乗していた。
彼女はダニエルの新たな試みに賛同し、バックコーラスを引き受けてくれていたのだ。
「ウィリーのギタープレイには何かスペイン的なものがあって、私はそれが好きだった。カリフォルニアの私のスタジオは“エル・テアトロ”と呼ばれていた。これはスタジオの入口の上の看板に(たまたま)そう書いてあったからだ。スペイン語で“劇場”という意味のあるこの名前を気に入ったウィリーは、それをアルバムのタイトルにすることを即決した。」
ウィリー・ネルソンは、スタジオで長い時間を過ごしたがるタイプのアーティストではなかった。
一匹狼的なやり方で長年やってきた彼にとって、大人しくスタジオの椅子に座っていることは苦痛でしかない。
「ウィリーとボブ・ディランには共通点があるんだ。二人とも疲れをしらない吟遊詩人で、二人とも旅からの呼び声に依存している。ノンストップに回転し続けるウィリーのタイヤと、ノンストップで方向を変え続けるボブの心。彼らのような国宝たちの仲間とみなされることを誇りに思っているよ。」
ダニエルがウィリーとアルバムを作るために与えられた時間は、たったの4日間だった。
ウィリーはなにをするにも素早く行動をする男だったという。
ほとんどのテイクをほぼ一発で決めてくるほどの完成度の高い演奏力と集中力に、ダニエルは驚いた。
「古くて使い込まれたスパニッシュギターのネックの上で、彼の指が躍っていた。インスト曲からメドレーのよう次の曲へと繋がってゆくところなど、まさに録り直しがきかないテイクだった。スパニッシュギターとウィリーの息子に捧げる愛情が、このアルバムのムードと方向性を作り出していた。我々は一度も道に迷うことはなかった。ウィリーの予測不能なフォレージングの細かな動きを、エミルーが完璧にフォローしていた。そして、あっという間にすべてのテイクを録り終えたんだ。」
<参考文献『ソウル・マイニング 音楽的自伝』ダニエル・ラノワ(著)鈴木コウユウ (翻訳)/みすず書房>