僕のことを忘れないでおくれ
可愛い僕のマーサ
ポール・マッカートニーにはミューズ(彼に付き添う音楽の女神)がいた。ポールはその存在にマーサと名づけ、自らが飼っていた雌犬をマーサと呼んでいた。
物語は、ある日の朝、ポールが友人と一緒に愛犬マーサの散歩に出かけた時に起こった。
丘をのぼる散歩コース。ポールは友人と議論に夢中になっていた。彼らは丘の上から眺める景色の美しさについて語り合った後、「神は実在するかどうか」について議論していたのだが、気がつくとマーサの姿が見えなくなっていたのだ。
可愛い僕のマーサ
僕がずっとおしゃべりしてたからって
どうか、僕のことを覚えていてくれよ
忘れないでおくれ、可愛い僕のマーサ
「マーサ・マイ・ディア」の歌詞は、友人とおしゃべりに夢中になっている間に迷子になったマーサ、という設定以外に説明できないものだ。そして、マーサを探そうと振り返ったポールは、コートを着込んだ身なりのいい紳士に出会うことになる。
ポールがマーサを探そうと振り返ったほんの数秒前、そこには誰もいなかったはずだった。だが、男は、ずっとそこにいたかのように、静かに立っていた。
ふたりは挨拶を交わす。すると男は、ロンドンを見渡せるプリムローズ・ヒルの頂からの景色は素晴らしい、と言った。何が起こっているのかわからず、気が動転していたポールは愛犬を探していたことを思い出し、男から視線を外す。
そしてまた数秒後、視線を戻すと、男の姿は見えなくなっていたのである。不思議なことに、男が姿を消したと同時に、愛犬マーサは姿を現した。
家に戻ったポールは友人と、何が起こったのだろう、と語り合った。ドラッグの影響はありえなかったし、数秒間で出入りできるような木々も近くにはなかった。
来る日も来る日も
ただ一人、丘の上
愚か者の笑みをたたえた男が
完璧な静けさで立っている
ポールは、その不思議な出来事を歌にした。それが「フール・オン・ザ・ヒル」である。もちろん、ポール自身が目撃した男は、愚か者ではない。
誰も彼のことを知ろうとしない
彼のことをただの愚か者だと思っているからだ
そして彼も何を答えるわけではない
だが、と歌は続く。
丘の上の愚か者は
日が沈みゆくのを眺め
その頭にある目で
世界が回転する様を観ているのだ
ポールは「神」のイメージと遭遇した、と思ったのだろう。
丘の上から世界を見下ろす目、というイメージは、ドル紙幣に刷られたピラミッドの眼をも連想させるが、高い場所から世界を見下ろすというイメージは、日本人にも馴染みが深い般若心経に登場する<観自在菩薩>にも見られるように、様々な場所で共有されているものだ。
ところで、愛犬マーサと再会したポールは、彼女とどんなふうに遊んだのだろう。僕には、「フール・オン・ザ・ヒル」の最後の部分が、マーサと遊んでいるシーンのように思える。
スピン。
主人がそう言うと、犬は回転し始めるのだ。
ラウンド、ラウンド、ラウンド、ラウンド、ラウンド……
P.S.
愛犬マーサとポールはいつまで一緒にいたのだろう。
ポールはいつまでミューズと一緒にいたのだろう。
もしかしたら。。。
ポール28歳死亡説と何か関係があるのだろうか、とふと、真夏の夜に考えてみる。
(前編コラム『アーティストの曲作りを支えた音楽の女神たち』はこちらからどうぞ)
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