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チャック・ベリー27歳〜順風満帆な新婚生活、運命を変えたマディ・ウォーターズからの一言

2024.03.17

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ボ・ディドリーやリトル・リチャードと並び“ロックンロールの創始者の一人”として知られているチャック・ベリー。
ロックが好きならば彼の名を知らない人はいないだろう。

ビートルズのジョン・レノンが「ロックンロールに別名を与えるとすれば“チャック・ベリー”だ」と発言しているほど、後進のロックアーティストたちに多大な影響を与えてきた彼。

そんなロックンロール史上最大のレジェンドが、27歳の頃一体どんな日々を過ごしていたのだろう?

──1926年、彼はミズーリ州セントルイスに住む家庭の6人兄弟の真ん中として生まれる。(一部の伝記ではカリフォルニア州サンノゼ生とする説もあり)

幼いころから聖歌隊に入り音楽に親しんできた彼だったが、高校時代には不良仲間に影響され様々な悪事に手を染めて警察のお世話になったことも数多くあった。

17歳の時に少年院に送られ、3年後に釈放。その翌年にトディという女性と結婚し、GM(ゼネラルモーターズ)の工場で働きながら音楽活動をしていた。

27歳になった彼は、ピアニストのジョニー・ジョンソン率いるバンドにギタリストとして加入する。

「あれは1952年の年の瀬だった。ジョニー・ジョンソンというピアニストから電話があったんだ。大晦日の晩にトリオバンドでギターとヴォーカルをやらないか?ってね。セントルイスにあるコスモポリタンというクラブでの本格的な演奏だ。もちろん引き受けたさ!」


彼にとって、そのステージがプロのミュージシャンとしての第一歩となった。

年が明けてまもなく、コスモポリタンのオーナーからレギュラー出演の依頼を受ける。ピアニストのジョニー・ジョンソンがリーダー、ドラマーはエビー・ハディ、ベーシストは週末毎に変わったという。

「その頃セントルイス周辺で演奏されているのは、主にヒルビリーとかカントリー&ウェスタンだった。黒人客の多い店だったから、最初は“変な黒人ヒルビリーバンド”として笑われていたけど、すぐに評判になったんだ。客の黒人達が夢中になって裸足でヒルビリーで踊る光景は圧巻だったよ」


ジョニー・ジョンソンの理解もあり、彼は徐々に人の曲に新しい歌詞をつけたり、即興の歌詞を歌うようになる。ギターのアドリブの腕も上達し、ジョニーのピアノとの絡みも客に大ウケしたという。

「その頃はクラブでの演奏と掛け持ちしながら、親父の大工の仕事をしていたんだ。そのおかげで貯金もたまったので、55年型フォード・エスクァイアのステーションワゴンを買ったよ。俺にとっては初めての新車だった。家の二階部屋を増築することも決まり、専業主婦になっていたトディは大喜びだったよ」


その後、彼はブルース界の大御所マディ・ウォーターズから人生を変えるアドバイスをもらい、直後にブルースの名門チェスレコードとの契約を結ぶ。

彼は、その運命的とも言える日のことを鮮明に憶えていた。新車の遠乗りがしたくなり、シカゴに親戚がいるという友達とシカゴへとドライブした時のこと。マディ・ウォーターズが出演するクラブへ出向いたのだ。演奏が終わると、マディと口をきくチャンスができた。

「大統領か法王に、お目どおりするような気分だった俺は、曲の素晴らしさを褒めた後、単刀直入に“レコードをつくるにはどうすればいいのか?”と聞いてみた。大勢のファンが声をかけようとひしめく中で、マディは俺の質問に答えてくれたんだ。“レナード・チェスに会ってみろ!47丁目とカテッジの角にあるチェスレコードさ!”俺に音楽を愛することを教えてくれた人。俺の音楽に最も大きな影響を与えた人。それがブルース界のゴッドファーザー、マディだ!」


1955年、29歳にしてシングル「メイベリーン」で遅咲きのデビューを果たした後、彼は数年間に渡り「Roll Over Beethoven」、「Rock ‘n’ Roll Music」、そして代表曲となる「Johnny B. Goode」、「Carol」を発表しながら、ライブでおなじみとなった“ダックウォーク”で観客を楽しませ、一躍スターへの階段を登りつめていく。


<参考文献『チャックベリー自伝』チャックベリー(著)中江昌彦(訳)音楽之友社>

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