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TAP the ERA 1989-2019

川の流れのように〜美空ひばりが生涯最後に“想い”を込めた名曲にまつわる運命的なドラマ

2020.03.04

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1989年1月8日、元号が「昭和」から「平成」へ移り変わったその日、美空ひばりは一篇の短歌を詠んだ。

「平成の我 新海に流れつき 命の歌よ 穏やかに…」

そのわずか3日後(1月11日)に、「川の流れのように」はシングルカットされた。
約一ヶ月前(1988年12月1日)に発売されたアルバム『不死鳥パートⅡ』に収録されていたこの歌は、ひばりからの強い要望もあって奇しくもこの絶妙なタイミングでのリリースとなった。

「この歌を全国の皆さんに届けたい!」

この時のひばりの肺は既に病に侵されていたが、その意思は固いものだった。
しかし…1989年2月、ひばりに運命の時が訪れる。
全国ツアー“歌は我が命”の初日公演のため、早めに現地(福岡)入りしたひばりは、医師の診療を受けた際に以前より病状が芳しくない状態であることを告げられていた。初日(2月6日福岡サンパレス公演)を迎えた日、持病の肝硬変の悪化からくるチアノーゼ状態(血液中の酸素濃度低下)となる。
それでも、ひばりは周囲の猛反対を押し切ってコンサートを強行した。

「急な公演中止はお客様に申し訳ないから、明日のステージまでは何が何でも唄わせて欲しい…」

まさに満身創痍の中、翌日に行なわれた小倉公演(九州厚生年金会館)での公演を終えた彼女は、不本意ながらもツアーの中止を余儀なくされる。
日本中が天皇崩御の喪に服す間に、徐々に彼女の体調は悪化してゆく…。
実質最後のステージとなった小倉公演から半年もたたずに彼女は還らぬ人となった。
平成元年6月24日、日本の至宝とも言われた歌手・美空ひばりは52年間の人生に幕を降ろした。
その死の一年前に行なわれたアルバム『不死鳥パートⅡ』のレコーディングの際、彼女はこんなことを語っていた。

「自分の歌から遠い30代の人たちにメッセージを残したい。」

この彼女自身が企画したアルバムで総合プロデューサー/作詞を担当したのは当時、作詞家・放送作家として若者から絶大な支持を得ていた秋元康だった。

「もしも今の時代にひばりさんがデビューするとしたら、どんな曲を歌うだろうか?」

秋元が企てた設定(コンセプト)のもとに、当時ポップス界で活躍していた5人の作曲家たちが集められた。
後藤次利、林哲司、高橋研、中崎英也…そしてもう一人、秋元とタッグを組んで「川の流れのように」の作曲を手掛けたのは、土屋昌巳率いる一風堂でキーボードとバイオリンを担当した見岳章だった。
秋元は当時とんねるずやおニャン子クラブの作品制作で多忙であったが、自ら「美空ひばりさんに詞を書きたい!」と言って名乗り出たという。

「あれだけ波乱万丈な半生を生きてこられたひばりさんが歌う、大丈夫よ!人生なんて川の流れのようなものだから…何とかなるわよ!という応援歌を作ろうと思って書きました。その時期僕はニューヨークに住んでいて、自宅の前にイーストリヴァーという川が流れていたんです。そろそろ日本へ帰りたいと思っていた頃で“この川は海を通じて日本に繋がっているんだ”と、ふと思ったんです。そんな気持ちも重なって歌詞のイメージが湧いてきたんです。」


当初、制作サイドでは「ハハハ」というタイトルのノリの良いポップス楽曲をシングルカットする意向だった。

「お願いだからこれだけは私に決めさせて!」

普段はスタッフの意見を尊重するひばりが、この時だけは自身の希望を押し通したのだ。
それは1988年10月11日、日本コロムビア本社内で行われた記者会見での出来事だった。
制作サイドは記者たちに対して事前に当初シングルカットされるはずだった「ハハハ」を聴かせたという。
ある記者がひばりに対してこんな問いかけをした。

「ひばりさん、今回のアルバムを楽しみにされているファンの方々が沢山いらっしゃるかと思いますけれども、アルバムに収録されてる10曲がどんな曲なのか紹介していただけますか?」

すると彼女は、少しだけ間を置いてこう語り始めた。

もう“川の流れのように”という1曲聴いていただくと、10曲全てがわかるんじゃないでしょうか。これからの私が大海へ流れる川であるのか?それとも何処かへそれちゃう川であるのか?それは誰にも分からないのでね…だから“愛燦燦”とはまた違う意味の人生の歌じゃないかなって思います。」

それはある意味、会見当日までスタッフが準備してきた意向を全て覆す回答だった。
記者会見後、製作部はバタバタしながら1989年1月のリリース準備に入ったという。
彼女は秋元とスタッフに対して、こんな言葉で説得したという。

「秋元さん、この曲はいいよね。1滴の雨が木の根を伝ってせせらぎが小川になる。やがて大河になってゆっくりと海にたどり着く。人生っていうのも同じように真っ直ぐだったり、曲がっていたり、流れが速かったり、遅かったり…本当に川の流れのようなものなのよ。でもね、最後はみんな同じ海にそそいでいるのよ。」


後に…ひばりの訃報を聞いた秋元は、その言葉を思い返しながら感慨に浸ったという。

「同じ海にそそいでいるのよ。」

秋元は、彼女の言葉とそしてニューヨークで感じた想いを重ねていた。
プロデューサーや放送作家など様々な肩書きがある彼だが、昭和の大スター美空ひばりの“最後の楽曲”を手掛けることができたことに運命的なものを感じたという。

「ひばりさんに褒めていただいて“作詞家”って名乗っていいかなと…はじめてそこで思ったんです。」

<引用元・参考文献『昭和歌謡〜流行歌からみえてくる昭和の世相』長田暁二・著(敬文舎)>



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