Extra便

B.B.キング〜ブルース・シンガーになるということは、二度黒人になるようなものだ

2017.05.14

Pocket
LINEで送る

少年時代のB.B.はある日、お金を貯めようと思いついて、舗道に座ってギターを抱えてゴスペルを歌うことにした。すると、通り掛かった男が立ち止まって聞き入りながらハミングをし始めた。いい兆しだ。気分が良くなったので次々と歌い続けた。

「神のご加護がありますように」
男は上機嫌でそう言った。B.B.も同じ台詞を返してチップを待った。
「なかなかうまいぞ、坊主」
「ありがとうございます」
「その調子で歌い続けるこった」


男は肩をポンと叩いて行ってしまった。他の人々のポケットからも1セントたりとも出てこない。そこでB.B.少年は方針を変更。別の日に世俗の歌を弾いて歌ってみた。歌詞など覚えていないので、自分で適当に作った。ゴスペルの“私の主”が“俺のベイビー”になったくらいだ。

「そういうブルースをどんどんやってくれ」
すると、あの男がまたやって来て言った。
「その調子で歌い続けるこった」
肩をポンと叩くと、今度はポケットから小銭を取り出して、B.B.少年の手に握らせた。

B.B.キング──あらゆるジャンルのミュージシャンと交流・共演して、ブルース音楽を世界中に広げたその功績は余りにも大きい。チョーキングを主体とする泣きのスクィーズ・ギターとゴスペル的な感覚のこぶし回し(メリスマ)でシャウトする歌唱で1950年代にブルースの新時代を築き、以来「モダン・ブルースの顔役」として自らのバンドとバスを従えて、年間平均330回公演という巡業生活を40年以上も続けた。この男から影響を受けたアーティストは数知れず。どんな大スターでもB.B.の前では憧れを抱いた無垢な子供のような瞳になる。

B.B.は1925年9月16日に、ミシシッピ州インディアノーラ付近の小さな村で貧しい農家の子として生まれた。本名ライリー・B・キング。4歳の時に両親が離婚、9歳の時に一緒に暮らしていた母親を亡くす。南部の都会メンフィス行きを夢見つつ、ゴスペルやカントリー、ジャズやブルースを聴いて育った。ブラインド・レモン・ジェファーソンやロニー・ジョンソンがアイドルだった。

その後、T・ボーン・ウォーカーの洗練された都会的なブルースとエレクトリック・ギターの色気に完全に魅せられ、音楽で生計を立てることを決意。メンフィスで従兄と暮らしながら働く。地元のラジオ局WDIAにDJ兼ミュージシャンとしての職を得ると、「ビール・ストリート・ブルース・ボーイ」というニックネームで呼ばれた。長いので「ブルース・ボーイ」となり、「B.B.」になった。綿花畑を抜け出した音楽畑での新しい人生がスタートした。

1949年、弱小レーベルに「Miss Martha King」(奥さんの名前)など4曲を吹き込んでレコードデビュー。その年の冬、ボロ家のナイトクラブで演奏中、二人の男が喧嘩を始めて灯油缶に身体が倒れてみるみるうちに火事に。B.B.は一旦外に避難するも、大切なギターを火の海を泳ぎながら取り戻しに行く。男たちの喧嘩の原因はルシールという名の女の取り合いが原因だった。B.B.はこの時、二度とあんな馬鹿な真似をしないという意味を込めて、自らのギターを「ルシール」と名付けることにした。

モダン/ケントと契約後の1952年に「3 O’Clock Blues」でR&Bチャートの1位を初めて獲得。巡業生活も始まった。その代償としての離婚、事故、差別、借金、税金、慰謝料。ギャンブルと女がやめられず、15人の女性と15人の子供を作った。テーマ曲でもある「Every Day I Have the Blues」そのものだった。

苦しみ、幸せ、恐れ、勇気、混乱、欲望。すべての複雑な感情を単純な物語に乗せて語る。これがブルースの真髄だ。巡業生活は人を惨めな気分にさせるか、我慢強くさせるかのどちらか。私の場合は後者だ。


巡業中のある夜、嵐の中で自前のツアーバスが壊れ、修理しているうちに会場に遅刻した。プロモーターは「ギャラは払えない。客が待ってるぜ」と捨て台詞。ファンの歓声を裏切れないB.B.はステージに立った。そして言った。正義のために。

「本日来てくださった皆さん。本当に素晴らしいお客さんだ。嬉しいので今夜はタダで演奏することにします。プロモーターはギャラを払ってくれないらしいんで。それならどうして皆さんが彼に支払う必要があります? 次の曲へなだれ込む前に、払い戻しをしに行ってください」

ABCと契約後の1965年、ライブアルバムの大傑作と評価の高い『Live at the Regal』をリリース。アポロ劇場のジェームス・ブラウン、コパカバーナのサム・クックと並ぶ永遠の名盤と言われている。60年代後半からは会計士のマネージャーが片腕となって、正当なギャラを手にするようになり、メディア露出も増えていく。「The Thrill Is Gone」というキャリア最大のヒットを飛ばしたのもこの頃だ。1971年2月には来日も実現した。そしてラスベガスでの生活。

80年代には映画のサウンドトラックを作ったり、90年代はB.B.をリスペクトする多くのミュージシャンとのレコード制作やステージ、『ブルース・ブラサース』の続編への出演もこなした。2000年代にはエリック・クラプトンとの共演盤、生誕80周年でも話題に。自らの名前がついたナイトクラブ、ギター、衣料品、食品なども生まれ、ミシシッピ・デルタ出身の世界一有名なブルースマンはリッチマンにもなった。受賞歴も多数。

死のことを考える時、私はできれば次の三つの死に方ができればと思う。眠るように死んでいくか。ステージ上でルシールを抱きながら死んでいくか。愛の行為の最中に女性を抱きながら死んでいくか。そのいずれかだ。


1996年に刊行されたB.B.キングの自叙伝『BLUES ALL AROUND ME(だから私はブルース歌う)』にはそんな一節がある。B.B.は2015年5月14日、ラスベガスの自宅で愛する家族やギターに見守られながら息を引き取った。89歳での永眠だった。

ブルース・シンガーになるということは、二度黒人になるようなものだ。


B.B.KING 1949年
スクリーンショット(2015-05-22 23.46.41)

「Every Day I Have the Blues」


「The Thrill Is Gone」

*参考・引用/B.B.キング自叙伝『だから私はブルースを歌う』(石山淳訳/ブルース・インターアクションズ)
*写真はB.B.キング公式サイトより

*このコラムは2015年5月23日にB.B.キングの追悼記事として公開されました。

Pocket
LINEで送る

スポンサーリンク

関連アーティスト

関連するコラム

[Extra便]の最新コラム

このコラムへの感想・コメントを書く

Pagetop ↑