「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

Extra便

第一回レコード大賞を受賞した水原弘が放った言葉「レコード大賞? なんだい、それ」

2023.07.04

Pocket
LINEで送る

1959年12月16日、デビュー曲の「黒い花びら」がレコード大賞に選ばれたという知らせを聞いた歌手、水原弘が「レコード大賞? なんだい、それ」と言ったのは有名な話だ。

ジャズ界のスターで演奏旅行中に公演地の名古屋にいた作曲者の中村八大もまた、「おめでとうと言われても何のことだかわからなかった」という。

第1回日本レコード大賞が始まったとき、そこにはまだメリットも権威もなかった。
その日の夕刊に下記の新聞記事が載ったことで、歌謡曲の顕彰制度ができたことが初めてニュースになったのである。

初の日本レコード大賞決まる 「黒い花びら」に授賞
童謡賞は「やさしいおしょうさん」
歌唱賞はフランク永井

一年間にレコードを通じて発表された歌謡曲、歌曲、童謡の中から、最優秀の作品を選考する初の日本レコード大賞は、日本作曲家協会所属の作曲家七十六人がめいめい自信のある曲を一曲ずつ提出した中から、審査委員会(増沢健美委員長ほか十六人)が二日間にわたって審査の結果、大賞は「黒い花びら」(東芝)と決まり、作詩・永六輔、作曲・中村八大、歌唱・水原弘の三人に東郷青児デザインの金色のタテが贈られ、ほかに童謡賞が「やさしいおしょうさん」(キング、作詩・加藤省吾、作曲・八州秀章、歌唱・石井亀次郎とキング・ホオズキ会)に、個人賞は作詩賞に「フルート」(コロムビア)のサトウ・ハチロー、作曲編曲賞に「夜霧に消えたチャコ」(ビクター)の渡久地政信、歌唱賞に「夜霧に消えたチャコ」のフランク永井がそれぞれ選ばれ、年末に行われる授賞式(会場は未定)の実況はラジオ東京テレビから中継される。


日本レコード大賞を始めたのは日本作曲家協会、服部良一と古賀政男を筆頭とする作曲家たちだ。
アメリカのグラミー賞にならって制定した動機は、世界に通じる「新しい日本の歌の育成」にあった。

それは歌作りのレベルアップを目標とする純粋なものだった。
作曲家たちは自ら一念発起して、日本作曲家協会を発足させた。
そして大衆音楽のレベルを上げようと、作詞家や歌手の奮起を促して立ち上がったのである。

しかし、目先の利益や売上にしか目が向いていないレコード会社の経営者や首脳陣は、その趣旨を理解しようとしなかった。
なかには「我々の作品に順位をつけるのか」と、怒り出すレコード会社幹部もいた。

共催を申し込んだ日本レコード協会からも断られてしまった。
協賛を求めたテレビの民放各社も、「メリットがない」と冷やかな対応だった。
そのなかで唯一、賛意を示したのはラジオ局を併せ持つラジオ東京テレビ(現TBS)である。

結果的にはこのことがのちにTBSの独占中継へとつながり、年末のNHK「紅白歌合戦」へ続く人気番組になっていく。
だが当初は世間一般だけでなく、音楽の仕事に関わっている人達の関心も薄かった。

発足したばかりの日本作曲家協会には原資がない。
日本レコード大賞の運営資金は東京放送が60万円、レコード各社が3万円、雑誌の「平凡」と「明星」が各3万円を負担して行われた。

不足した分については運営委員長を引き受けた古賀政男が、私費で穴埋めしたともいわれている。

大手新聞社の音楽記者会も参加を留保するという逆風の中で、第1回レコード大賞は音楽ペンクラブに所属する元新聞記者5名、NHKが3名、民放放送局が各1名、それに「平凡」と「明星」の編集長らの審査によって行われた。

会員の作曲家が一人につき1曲エントリーできるという規約で、対象となったのは過去一年間にレコードとして発表された歌謡曲、歌曲、童謡作品の76曲だ。
12月14日に行われた第一次予選では20曲が選出され、第二次予選で6曲が大賞候補になった。

「心と心のワルツ」作詞:松井由利夫 作・編曲:原六朗  歌:朝丘雪路(東芝)
「古城」作詞:高橋掬太郎 作曲:細川潤一 歌:三橋美智也(キング)
「夜霧に消えたチャコ」作詞:宮川哲夫 作曲:渡久地政信 歌:フランク永井(ビクター)、
「フルート」作詩:サトウハチロー 作・編曲:古関裕而 歌:島倉千代子(コロムビア)
「黄色いさくらんぼ」作詞:星野哲郎、作曲:浜口庫之助 歌:スリー・キャッツ(コロムビア)、
「黒い花びら」作詞:永六輔 作・編曲:中村八大 歌:水原弘(東芝)

15日の本選の際に委員の一人から「黄色いさくらんぼ」について、「面白い曲だが、エロ味があるので社会的影響を考慮して選考の対象から外したい」という発言が出された。
それによって候補から除外されるという出来事が起こる。
次に「黒い花びら」はロカビリーだから外すべきだとの意見が出されたが、「ジャズでもロカビリーでも、いい曲ならかまわない。むしろ新しい歌謡曲を生んだ点を買いたい」という反対意見も出た。

そこから侃々諤々の討議が繰り返された末に最後まで残ったのが、「夜霧に消えたチャコ」と「黒い花びら」の2曲だった。
そして決選投票が行われた結果、わずか1票差で「黒い花びら」が選ばれたのである。

12月27日の夜、東京・文京公会堂では第1回日本レコード大賞の発表会が開かれた。
出席した中村八大の記憶では「200人くらいだったかな」という客の入りで、客席は閑散としていた。

表彰式後に催された祝賀会も会場の前にあった喫茶店で、紅茶とケーキで歓談するというささやかなものだった。

「黒い花びら」によって脚光を浴びて作詞の仕事を手がけることになった無名人、永六輔は後にこう語っている。

第一回というのは普通、権威のあるものを選んだりするでしょ。
全く無名人たちのものをトップにしたのはエライというか、審査員の良識だったと思うんです。


”審査員の良識”によって選ばれた「黒い花びら」が受賞後に大ヒットしたことで、レコード大賞は一躍その名を知られることになった。
これを作ったプロデューサーでもある作曲家の中村八大と、作詞家の永六輔はコンビを組んで名曲の数々を誕生させていく。

それから4年後、二人のコンビによる「上を向いて歩こう」(歌・坂本九)が、「SUKIYAKI(スキヤキ)」というタイトルになって全米チャートの1位になり、世界中でも大ヒットするのである。



*「黒い花びら」が誕生したコラムはこちらでお読みになれます。

中村八大と永六輔が初コンビを組んだ水原弘の「黒い花びら」がお蔵入りした事情

(注)永六輔の発言はサンデー毎日 1987年1月4日号、『レコード大賞「黒い花びら」は〝無名人〟たちの作品』からの引用です。





Pocket
LINEで送る

あなたにおすすめ

関連するコラム

[Extra便]の最新コラム

SNSでも配信中

Pagetop ↑

トップページへ