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震災に見舞われた新潟に手を差し伸べたデューク・エリントン

2016.05.24

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「A列車で行こう」をはじめとして数多くの名曲を残し、ジャズ創成期の20世紀前半を語る上で欠かすことのできない存在、デューク・エリントン。

「一人の人間のサウンドはそのミュージシャンの全人格」というのは彼の言葉だが、デュークは常に音楽を通じて自身の楽団のメンバーと向き合ってきた。
そうして生まれた音楽が持つ魅力について、大友良英はこう説明している。

僕らが今聴いている音楽の大部分は「打ち込み」と呼ばれている音楽で、コンピューターでオーケストラみたいな音も、デューク・エリントンみたいな音も作ることができます。ファミレスに行くと、どの店舗に行っても同じハンバーグが出てくる感じ。
デューク・エリントンの音楽は、最高級のレストランで、顔がはっきりとわかるシェフが作ったアメリカの料理なんです。


デュークが待望の初来日を果たしたのは1964年の6月19日。折しもそれは新潟震災の発生から3日後のことだった。

マグニチュード7.5の大地震は新潟県を中心に近隣の県も巻き込み、深刻な液状化と津波によって至るところが土砂と水に飲まれて多くの家屋が倒壊、死者26名という甚大な被害をもたらした。

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その惨状を見て動いたのは新潟市のACC(アメリカ文化センター)、アシュフォード館長だった。
ACCの前身であるCIE(民間情報教育局)図書館は、1948年にGHQによって新潟に設置された。
アメリカの文化を日本で広めることを目的にしたこの図書館は、GHQによる占領が終わったあともACCと名前を変えて存続し、映画鑑賞会やレコードの試聴会、コンサートを開くなどしてアメリカ文化を発信していた。

アシュフォード館長は来日中のデューク・エリントンに連絡をとった。
そのときの経緯について、当時秘書を務めていたジャズ・シンガーの星とよ子はこう語っている。

6月16日の地震の後、館長と被災状況を見て回り、何かできることはないかと考えていたときに、「デューク・エリントンが東京に来ているよね」という話が出て、数日後、エリントンさんが滞在しているホテルに電話をかけたのです。
するとご本人が電話に出られて、館長が「手を貸していただけないか」と申しましたら、その場でチャリティーコンサートを開くことを決めてくださいました。


デュークは日本でのツアーのあとにハワイでの公演を控えていたが、それをキャンセルして新潟のために日本に残る道を選んだのだ。

震災から19日後の7月8日、東京厚生年金会館で開催された「新潟地震チャリティーコンサート」には多くのファンが集まった。
「A列車で行こう」で幕を開けたコンサートは、デューク自慢の世界最高峰のプレーヤーたちによる名人芸で、観客の熱気が冷めやまぬまま「ロッキン・イン・リズム」で幕を閉じた。
収益金は96万円(消費者物価は現在の4分の1程度だったので今でいう400万円程度と推測される)、デュークはその全額を新潟に寄付した。

2年後に再び来日した際、デュークには新潟市から「国際親善名誉市民」の称号が贈られた。
デュークは「これまでミュージシャンとして頂いた賞は随分あるが、名誉市民というのは初めて」と喜び、新潟での公演を約束すると1970年に3回目の来日に果たし、復興した新潟でコンサートを開催している。
それはデュークがこの世を去る4年前のことだった。

デュークの行動は新潟の復興にはもちろん、ジャズが新潟に根付く上でも大きく貢献する。
現在、新潟では毎年1月と7月に「デューク・エリントン・メモリアル」と冠したジャズストリートが開催されている。
~~~~~~~~~~~~~~~~~

残念ながら当時の音源は残されていませんが、最後に初来日の2ヶ月前にモントリオールで開催された、当時のラインナップによるコンサートを紹介させていただきます。



引用元:
「デューク・エリントンを愛する」〜ジャズが溢れる港町〜|新潟日報 みらい大学
参考文献:
『デューク・エリントン』柴田浩一著(愛育社)


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デューク・エリントンを偲んで〜ジャズ界に偉大な功績を残した“公爵(デューク)”の足跡〜

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