ミュージックソムリエ

”大ヒット間違いなし!”~憂歌団の日本語のブルースが始まった

2017.06.19

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憂歌団といえば、内田勘太郎の超絶なブルース&スライドギターにのせて、木村充揮の”天使のダミ声”と称される独特のヴォーカルが歌う日本語のブルースが魅力だ。
しかし、結成当初から日本語でブルースを歌っていたわけではなかった。

1970年に大阪市立工芸高校で出会った内田と木村のデュオから始まった憂歌団は、高校卒業後に島田和夫と花岡献治が加わって4人となった。
その頃、京都では次第にブルースが盛り上がっていた。ある時、内田は高校時代から通いつめていた心斎橋のレコード店で、京都を中心に活動していたウエスト・ロード・ブルース・バンドのギタリストの塩次伸二を紹介され、その縁で憂歌団も京都で演奏する機会が増えていった。

京都では1973年にライブハウスの拾得が、そして1974年には磔磔が開店した。その年の5月には拾得で「ブルース・ゴールデンウィーク」というイベントが開催され、大晦日には京大西部講堂で、ブルースのオールナイト・コンサートが開催された。翌年の1975年には京都に3軒目のライブハウス「サーカス&サーカス」が開店し、ウエスト・ロード・ブルース・バンドの他にも、上田正樹とサウス・トゥ・サウス、久保田麻琴と夕焼け楽団、東京からはダウンタウン・ブギウギ・バンド、そして近藤房之助が加わったブレイクダウンなどがライブ出演し、もちろん憂歌団も出演するようになった。
当時は、ウエスト・ロードもブレイクダウンも、そして憂歌団も英語で歌っていた。「ブルースを日本語で表現するのは難しい」というのが、彼らに共通する見解だったのだ。



憂歌団の4人がまだ中学生だった1960年代後半、日本ではフォーク・ソングが流行し、関西でも中川五郎や岡林信康、高石ともやなどが出てきて、4人も聞くとはなしに聞いていたが、木村と花岡は同じ頃に流行したグループサウンズをより好んで聴いていたという。
また木村と内田がブルースにのめり込んでいた高校時代、聞こえてきた友部正人や高田渡、加川良などの歌は、自分たちに近いと感じていた。

しかし自分たちと彼らとの違いは、フォーク・ソングは歌詞とメロディーにこだわっていて、自分たちのブルースは歌も含めてサウンド(音)にこだわっているところだと感じていた。
だから、日本語でブルースを歌うとサウンドも変わってしまい、フォーク・ソングのようになってしまうことが、当時はなんだかカッコ悪いと感じていた。

その一方で木村は、英語で歌っていても、オリジナルを超えることはできないとも思っていたのだった。

憂歌団は北海道のツアーを回った後、東京に立ち寄って吉祥寺のライブハウスで演奏をした。その時に、レコードを出さないかと声をかけて来たのが、トリオ・レコードの中江昌彦だ。
木村は当時まだ家業の町工場を手伝っていたし、島田もデザイン関係の会社に勤めていて、活動はなるべく土日に限られていた。なので、木村は「最高、最強のアマチュア・バンド」として好き勝手にやれたらそれで満足で、特にレコード・デビューをしたいとは思っていなかったという。

しかし中江が契約書も用意してわざわざ東京から京都までやってきたので、「ほな、やってみるか」という感じで、レコーディングをすることになった。
その時に中江が出したのが、「ぜひ、日本語のオリジナルのブルースをやってくれ」という注文だった。

それは、当時の憂歌団のバンドとしての課題でもあった。

ちょうどその頃、名古屋でライブに出演した時に一緒になったのが、地元の尾関ブラザーズだった。兄の真と弟の隆の二人組で、ブルースの基本である3コードではなく4コードのラグタイムのような曲に、しかも日本語の詞をつけて歌っていたのだが、それがフォークっぽくならず、しっかりとブルースになっているのだ。

「こんな感じで僕らもやれたらええなぁ」


そう思った木村と内田は、彼らの曲に答えがあるかもしれないと考え、憂歌団で歌わせて欲しいと言ってOKをもらった。そして大阪に戻り、まずは内田が歌ってみた。なんか感じが違ったので、次に木村が歌ってみた。

「おっ!キムラが歌うと、全然変わるわ。木村が歌うと、ブルースになるわ」


そうして尾関ブラザーズに早速電話をして、「レコーディングをしたい」と伝えた。
すると喜んでくれた尾関ブラザーズが、「シカゴ・バウンド」「ひとり暮らし」「ジェリー・ロール・ベイカー・ブルース」などが入ったカセットテープを送ってきてくれた。

そのカセットには、「大ヒット間違いなし!」と書かれてあった。

シカゴに来て二年が経った
だけどいいことありゃしねえ
メンフィスから汽車に乗って
やって来たけれど
他のやつらは うまいことやってるけれど
この俺だけが 落ちぶれちゃった
街の片隅で 小さくなって
ひとり暮らしてる
ひとり暮らしてる

「シカゴ・バウンド」
作詞・作曲:尾関 真




同じ頃、内田も飲み友達だった名古屋出身の沖てる夫と曲作りを始めていた。
それまで憂歌団が英語で歌っていたRichard M. Jonesの「Trouble In Mind」に、沖てる夫が作詞をし、内田がコードを少し変えアレンジを加えて「嫌んなった」が誕生する。

Richard M. Jones 「Trouble In Mind」

嫌んなった もう駄目さ
だけどクサるのは止めとこう
陽の目を見るかも この俺だって

「嫌んなった」
作詞:沖てる夫 作曲:憂歌団




こうして、「嫌んなった」「シカゴ・バウンド」「おそうじオバチャン」などが収録された、日本語のブルース中心のレコードが出来上がった。
1975年、そのデビュー・アルバム『憂歌団』から、彼らの日本語のブルースが始まった。


(注)引用元および参考文献:「木村充揮自伝 憂歌団のぼく、いまのぼく」 K&Bパブリッシャーズ


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