1962年8月18日、マージー川をはさんでリヴァプールの対岸にあるバーケンヘッドの町で、地元園芸協会の17周年を記念するダンスパーティーがあった。
その夜の10時からハルム・ホールのステージに立ったのは、この日からリンゴ・スターを正式メンバーに加えたザ・ビートルズだ。
ジョン・レノンの両親は第2次世界大戦におけるイギリスの勝利を願って、当時の英国首相だったウィンストン・チャーチルの名からジョン=ウィンストン=レノンと名づけた。
しかし船乗りであった父親は船乗りで家庭をほとんど顧みず、母親も育児放棄で姉夫婦に息子を預けて一人で暮らした。
子供の頃から孤独だったジョンは、1956年にエルヴィス・プレスリーの「ハートブレイク・ホテル」を聴いて、ロックンロールに目覚めている。そしてギターを手に入れると、ザ・クォリーメンというスキッフル・バンドを結成した。
スキッフルはギターを中心に、ドラム代わりの段ボール箱、パーカッション代わりの洗濯板など、ありあわせの楽器を演奏して歌う音楽である。誰にでも演奏できる手軽さが受けて、イギリスでは若者たちの間で人気を集めていた。
その頃にジョンは母親のジュリアが近くに住んでいることを知って仲良くなったが、ジュリアは2年後に家の前で自動車に轢かれて死亡してしまう。
〈参照コラム〉二人の母、二人の妻、そして二人のレノン・前編
ポール・マッカートニーはバンドマンとして活躍したこともある父と、看護師であった母との間に生まれている。乳ガンに罹った母が急に亡くなったのはポールが14歳のときだった。
母の死による悲しみをまぎらわすためギターに熱中したポールは、ラジオから流れてくるアメリカのロックンロールを聴いて、それをカヴァーするのに夢中になった。
友人からクォリーメンの出演するパーティに誘われたポールは、ジョンと出会ってバンドのメンバーに加わることになった。
ともに思春期に母を失くしたジョンとポールは、一緒にギターを奏でながら歌うことで、無意識のうちに生きている証を確かめていたのかもしれない。だから彼らの歌声と演奏は自然と弾けるものになり、強い生命力を放つようになっていった。
ポールの相棒的な存在だったジョージ・ハリソンをギタリストに加えて、クォリーメンは1958年からリヴァプールのクラブなどで活動し始めた。
クォリーメンはバンド・メンバーの離合集散を経て、ベースにステュアート・サトクリフが参加してシルヴァー・ビートルズと名乗り、1960年にヨーロッパ最大の歓楽街があるドイツのハンブルクに遠征した。
それはクラブと長期契約して一日十時間にもおよぶステージを、連日連夜こなすきつい仕事だったが、そこで夜ごとに鍛えられたおかげで、バンドとしての演奏力と持久力を高めていった。
ハンブルクにおけるさまざまな出会いは、彼らを表現者として成長させていく。ジョン・レノンが「俺たちを育ててくれたのはリヴァプールじゃなくて、ハンブルグなんだ」というように、ハンブルクは単に無名時代の活動の場ではなく、ビートルズが名実ともに誕生した場所となった。
彼らのトレードマークとなる「モップ・トップ」と呼ばれるヘアスタイルは、カメラマンの友人のアイディアだった。後にドラムを担当するリンゴ・スターと対バンになり、セッションを行ったりもしている。
最初の遠征でハンブルクに残る道を選んだサトクリフがバンドを辞めたので、リヴァプールに戻った後はポールがベースを担当することになる。
そしてドラムにピート・ベストが加入、4人構成となったビートルズは1961年には再びハンブルクに行き、さらに鍛えられてバンドとしての表現力も磨いていった。
1962年の春にも3度目の遠征で「スタークラブ(Star Club)」に出演し、残るは自作曲でのレコード・デビューだけとなったところで、EMIのパーロフォン・レーベルからデビューすることが決まった。
だが、6月6日に行われたデモテープ録りの後でプロデューサーのマーティンは、ドラムのピート・ベストの技量について、マネージャーのブライアンに危惧していると伝えた。
そのことをきっかけにビートルズの3人とブライアンは、ピートを外して新しいドラマーを迎え入れることを決める。白羽の矢が立ったのはリヴァプールのバンド仲間、リンゴ・スターだった。
ジョンと同じ1940年生まれのリンゴは、リヴァプールでも最も貧しい地区で生まれ育った。幼い頃に両親が離婚したので母と継父に育てられたが、幼い頃から体が弱くて入院生活が長かったことから小学校にもほとんど通えなかった。
しかし継父にドラムセットを買い与えられたことで世界が開けて、先天的な才能を発揮してリヴァプールではトップの腕前になった。
その年の2月に体調が悪くてピートがステージに立てなかった時、ジョンはリンゴに連絡を入れて代役でドラムを叩いてもらっている。
その時にセッションした経験からビートルズの3人は全員、リンゴが加わることでバンドに表現の可能性が大きく広がると考えたのだった。
これでFab Four(ファブ・フォー)、素晴らしい4人が揃うことになり、そこから新しい音楽の歴史が始まったのである。
それから1年後の8月3日に行われたリヴァプールのキャバーン・クラブでの演奏を見れば、この4人でしか出せない魅力が放射されているのが伝わってくる。
(このコラムは2016年8月18日に公開されました)
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