「ある意味、今27歳という年齢ですごく安心しているよ」
1979年の秋、ジョー・ストラマーはNMEのインタビューでこう語った。
安心しているのは、実年齢を堂々と言えるようになったからだ。
「クラッシュ初期の頃、『実際の齢がバレたら俺はゴミ箱に捨てられる』って思っていたけど、『かまうもんか、俺はすごいんだ』って思うようにしたんだ」
ザ・クラッシュのメンバーたちや、他のバンドよりも年が上だったジョーは、それまで年齢を若く偽っていた。
そしてそのことにはずっと、後ろめたさを感じていたという。
虚飾を捨てて開き直ったポジティブな精神が、実を結ぶのはその年の12月である。
3枚目のアルバム『ロンドン・コーリング(London Calling)』がリリースされると、音楽メディアや評論家から称賛の嵐を受けて、英米でプラチナ・ディスクを獲得する大ヒットとなったのだ。
時代を象徴するバンドとしての名声を獲得したクラッシュだが、成功によって得た安住の地に胡座をかくことはなかった。
翌1980年3月、クラッシュはアメリカ・ツアーが終わると、母国イギリスに帰ることなくジャマイカ、そしてニューヨークで新しいアルバムのレコーディングに取り掛かった。
このとき、ジョーとソングライティングのパートナーであるミック・ジョーンズは、新曲を全く用意できていなかった。
ツアーに専念していたので、曲を作る余裕がまったくなかったからだ。
しかしスタジオに入った2人は、次々と新曲を書き上げていく。
そして12月にリリースされたアルバム『サンディニスタ(Sandinista!)』は3枚組のLPで、全36曲という前代未聞のとてつもないボリュームになった。
1曲目の「The Magnificent Seven(7人の偉人)」では、流行のファンクやラップをいち早く取り入れていた。
レゲエやカリプソ、R&Bやゴスペルなど世界の様々な音楽が、3枚組のアルバムに詰め込まれたのだ。
このときはレコード会社からは曲目を厳選して2枚組、あるいは1枚にするべきだと強く要求された。
だが、ジョーとミックはそれを突っぱねた。
ブルース・スプリングスティーンが10月に発表した2枚組の大作、『ザ・リバー(The River)』への対抗心があったともいわれたが、それ以上に36曲の中に“捨て曲”は1つもないという確固たる自信があったのだ。
「俺たちにとって特別な時期だったんだ。6面では収まりきれないくらいエネルギーを爆発させた。俺たちクラッシュはこういうバンドなんだという宣言だったんだ」
ただし、それだけが理由ではなかった。
ジョーはそれまで一貫して、社会で虐げられている人々の側に立って歌ってきた。
ホームレスを見かければ酒代に消えると分かっていてもお金を渡し、コンサートに行くお金がない若者を見つければ、会場にゲストとして招待した。
ジョーの招待者リストはいつだって、そうした人たちの名前で溢れていた。
アルバムに36曲も詰め込んだのも1枚分のお金で、出来るだけ多くの曲を聴けるようにしたいと、ファンの負担を考慮していたからだった。
そのためには自分たちの受け取る印税を放棄してまで、レコード会社にアルバムの価格を下げさせる交渉を続けたのだ。
常にファンのことを優先し、守りに入ることなく挑戦し続けて、愚直なまでに前に進む。
そして、音楽で世界を変えていく。
サウンド面で大きな変革が起きた『サンディニスタ』だったが、ジョーの考え方と姿勢はザ・クラッシュを結成して以来、何一つ変わっていなかった。
(注)このコラムは2014年12月17日に初公開されたものです。
参考文献:リデンプション・ソング ジョー・ストラマーの生涯(シンコーミュージック・エンタテイメント)