クリス・クリストファーソンは父が空軍の元将軍で、自分もオックスフォード大学を卒業後、西ドイツで空軍のパイロットとして従軍した。
そして退役後には就職したのだが、すぐに仕事を辞めることを決意する。念願だった音楽の道に進んで、ソングライターをめざすためである。
しかし、29歳で幼い子供を持つ父親のクリスに、そんな「自由」な生き方が許されるはずはない。
クリスがほんとうの「自由」の意味を知ったのは1965年のことだ。高校時代に知り合って結婚していた妻は、娘たちを連れて家を出ていってしまった。
「自由」であることは両刃の剣だった。本当の「自由」とは失うものが何もない身のことだと、クリスはそのときに初めて感じたという。
「ミー・アンド・ボビー・マギー」の歌詞には、そのときの体験が込められている。
自由という言葉は言い換えれば
失うものが何も残っていない身ということ
値うちのあるものなんて何もないけど自由
1970年7月3日。
グレイトフル・デッドやザ・バンドなどを筆頭に、大勢のミュージシャンが「フェスティバル特急」と呼ばれた列車に乗って行ったカナダ・ツアーの最終日。
ステージには星条旗をスカーフのように巻いたジャニス・ジョプリンが立っていた。
「わたしが知っている歌はひとつだけ。いいわ、とにかくその歌を唄うからね」と言って歌い出したのは、別れて間もないクリスが作った「ミー・アンド・ボビー・マギー」だった。
ジャニスにとってのボビー・マギー、それは2ヶ月前に自分の部屋を出ていった男、クリスの姿や歌声に重なってくるものだった。
ボビーがブルースを歌っていれば
ほんとうにすぐいい気分になれたの
ええ、私にはもうそれで十分だった
私とボビー・マギーには十分だった
ツアーから3か月後の10月4日、アルバムをレコーディング中だったジャニスは、自室で亡くなっているところを発見された。ドラッグの過剰摂取が死因だ。享年27。
ジョーン・バエズからジャニスの死を知らされたクリスは、ジャニスがレコーディング中だったスタジオに行った。彼女の遺した「ミー・アンド・ボビー・マギー」のテープを聴いて、クリスはこう言ったという。
「ジャニスのために書いたわけじゃないのに、ジャニスのことのようだ」
ジャニスに歌い継がれて死後に発売された「ミー・アンド・ボビー・マギー」は、1971年3月に全米チャート1位の座に輝いた。シングル盤が大ヒットしたのは、ジャニスにとってこれが最初で最後のことだった。
それから40年以上もの年月を経て、クリスは2013年6月に取材に答えてこう語っている。
「ボビー・マギーは私にとって重要な歌だ。歌うたびにいつも、まだジャニスについて考えるんだ」
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