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TAP the DAY

ちあきなおみの「ねえあんた」を作った伝説のプロデューサーは、なぜ名前を伏せねばならなかったのか?

2016.10.22

1974年10月22日と23日の二日間、ちあきなおみの最初で最後のリサイタルが、東京の中野サンプラザホールで開催された。

「ねえあんた」はこのリサイタルのために作られた書き下ろしの作品で、作詞は松原史朗、作曲は森田公一、プロデュースしたのは砂田実である。

このリサイタルは後に2枚組のアルバムとして発売になっているが、クレジットをみると構成が青山浩/松原史郎、演出は青山浩/名也なぎほと記されていた。

青山浩は砂田が使っていたペンネーム、名也なぎほも砂田の盟友だった舞台監督、川名卓のペンネーム。
それぞれが会社に所属していたために、実名を出すわけにはいかなかったのだ。

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1955年に慶應義塾大学を卒業してラジオ東京(後のTBS)に入社した砂田は、一貫してテレビ製作部で音楽番組の演出とプロデューサー業務を行なってきた。
『日本レコード大賞』『TBS歌謡曲ベストテン』『歌のグランプリ』『東京音楽祭』など、数々の著名な番組で総合プロデューサーを務めた。

砂田はテレビ放送が始まって間もない頃、TBSの社員であるにもかかわらず、フジテレビに出社していたことがある。
ハナ肇とクレージーキャッツが人気ものになった10分の帯番組、『おとなの漫画』で脚本を書いていたからだった。
それを昼に生放送でオンエアしてから、何食わぬ顔でTBSに出社していたという破天荒な逸話の持ち主なのだ。

それは『おとなの漫画』のディレクター、中学時代の友人だったすぎやまこういちに「昼の帯でクレージーキャッツのコントをやるから書いてくれる?」と頼まれたのがきっかけだった。
『おとなの漫画』は当初、永六輔や前田武彦など、そうそうたる放送作家が名を連ねていたが、朝6時に起きて新聞の朝刊を読んでから、時事ネタを脚本にするという仕事がきつくて、みんな逃げ出したという。

残ったのは青島幸男と砂田の二人だけ、ともにすぎやまとは中学時代からの親友という間柄だった。

当然だがTBSにもフジテレビにも秘密、いわば内職である。
そのときに作者名として青山浩というペンネームを使い始めたのだ。

クレイジーキャッツの植木等による「なんである、アイデアル」、同じくクレイジーキャッツの桜井センリのコマーシャル「金鳥のルーチヨンキ」なども、砂田が作って流行語になった有名なコマーシャルだ。

しかしそれらはすべて内職だったために、「日本放送作家協会 CM作品賞」や「ACCフェスティバル金賞」を受賞しても、砂田実という名前が表に出ることはなかった。






越路吹雪やザ・ピーナッツ、尾崎紀世彦、五木ひろしなどのコンサートやリサイタルでも、砂田は構成と演出を手がけている。
それらは会社の仕事ではなく、個人的に頼まれて引き受けたものだ。

芸能界の用語で言えば「シヨクナイ(内職)」である。
だが砂田には、やましい気持ちは微塵もなかった。
だから隠すこともせずに、堂々とショクナイに励んでいた。

現在のように専門職として細分化されていなかったし、なにしろ圧倒的に人材が足りなかった。
だから優秀な人間には業界を超えて声がかかり、良い結果を出せば本業にも仕事としてつながったのだ。


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2016年の10月、「ショクナイの帝王」の名とともにたくさんの伝説を持つ、85歳の砂田実さんにお会いして1974年の『ちあきなおみリサイタル』について話を伺った。

ちあきなおみは不思議な歌い手でしたね。
誰もが認める実力を持ち、まだまだ歌えるにもかかわらず、はっきりとした引退を口にすることもなく、歌手であることをやめてしまいました。


1969年にデビューしたちあきは、幼い頃より米軍キャンプを回って鍛えた歌唱力と天性の素質により、音楽シーンで大きな存在感を示し始めた。
1972年には「喝采」でレコード大賞を受賞する。




砂田さんが『ちあきなおみリサイタル』の構成と演出を依頼されたのは、「喝采」から2年後のことだ。
所属事務所の社長だった吉田尚人とともにやって来たちあきは、「おはようございま~す! (ニコッ)」という、若い女性歌手に定番の挨拶もせず、ただ寡黙というか、ぼーっと座っているだけだったという。

「変わった子だな」と思いました。
「大丈夫か?」と多少不安になったのも正直なところでした。
それに対して社長の吉田氏はユニークな人物で、坂本龍馬に心酔していて、止めない限りは何時間でも龍馬について話し続ける人でね。
なぜ龍馬の話になるのかわからないが、無理矢理にでも話題にしないと気が済まなかったらしい。
僕の偏見かもしれないが、芸能界で第一線を張っている人たちは、男でも女でもわがままで我が強く、概して性格はあまりよろしくはありません。
生き馬の目を抜くような世界にあっては、そうでなくては生きていけないからでしょう。
しかし、ちあきには全くそういうところがなかった。
TBSの音楽番組プロデューサーだった僕の番組にも出てもらったことは数回ありました。
例えば、ちあきのほか、佐良直美、水前寺清子、和田アキ子という、当時の朝売れっ子たちを配したバラエティドラマ、『おかしな四ツ児』(1971年)というコメディです。
でも共演者とのおしゃべりに興じることもなく、ちあきはいつも静かに隅にたたずんでいましたね。
下積み時代を揶揄してなのか、「ちあきさん、明日はどさ回り? 大変ね」という嫌味を浴びせられても、ただ小さく薄い笑みを返すだけでしたよ。


砂田さんはコンサートを引き受けるに当たって、早速いつものようにレコード屋に足を運んだ。
ちあきならではのカヴァー曲を歌ってもらうために、シャンソンを中心としたアルバムを10枚ほど買いそろえて、それを片っ端から聞きまくったという。

どうしてそんな作業をするのかというと、歌い手のコンサートを引き受けたからにはその歌い手の領域を少しでも広げたいと、砂田さんは考えていたからだ。

それと同時に、演出を引き受けるからには歌い手の、その「時」に合わせた、それぞれの「ドラマ」を表現するオリジナル曲を作ることにしていた。
この二つを実現して舞台を構成する、それができなければ単なる楽曲の交通整理屋に過ぎない、それでは構成・演出というタイトルが泣く。
そう考えて仕事をしていたので、一流歌手たちが砂田さんに演出を依頼してきたのである。

砂田さんは早速、信頼できるスタッフを集めた。
自分の他に松原史郎を構成に加えて、音楽監督とアレンジは宮川泰に任せることにした。

そして選びに選んだ曲目リストを作り、ちあきサイドと2回目の打ち合わせに臨んだ。

ぼくはちあきの新たな魅力を引き出そうと、少し欲張ったプランを提示しました。
彼女の持ち歌のほかに、シャルル・アズナヴールの「帰らざる青春」、シャンソンの名曲「ボン・ボヮヤージュ」、越路吹雪の歌唱で知られた「うちへ帰るのがこわい」、そしてアングラ界の黒衣の歌姫・浅川マキの「かもめ」をカヴァーし、ちあきのためのオリジナルも4曲作るというものです。


プラン通りに準備が始まり、そこで生まれたのが「ねえあんた」だった。
心根のやさしい娼婦と惚れた客とのやりとりを、一人芝居のように歌で表現するアイデアが、砂田さんのなかで浮かんだ。

娼婦の悲哀をひとり語りのように歌劇で紡いでいく、その台詞のやりとりを松原史郎に話して歌詞をまとめると、砂田さんは注目していた若手の作曲家、森田公一に曲をつけてもらった。
こうして表現するのがとても難しい「ねえあんた」が完成したのだった。

そのとき砂田さんはあることに気がついた。
全部で25曲のうち、娼婦を主題にした歌が4曲にもなっていたのである。

ちあきなら娼婦の物憂げな気配や悲哀を、魅力的に表現できると無意識に感じていたのかもしれません。
とはいえ、これは相手によっては「いい加減にしてください! 私をどう見てらっしゃるの!? 」と、青筋立てながら席を立たれてもおかしくない選曲です。
しかし、ちあきは黙ってうなずいただけでした。


中野サンプラザホールでの本番に向けて稽古が始まったとき、砂田さんはとても驚かされたと言う。
最初のリハーサルで、ちあきはすでに完璧に近い「ねえあんた」を歌ったのだ。

ちあきは自分の部屋を黒いカーテンで囲って何日もそこに篭り、「ねえあんた」を繰り返し練習したんですとマネージャーが打ち明けた。

彼女には本当のプロの姿を見せられました。もちろんリサイタルは大成功に終わりました。
それから時は流れて2000年に発売された「ねえあんた」がタイトルになった6枚組みのCDボックスが、累計10万セットを超える驚異的な売り上げを記録したらしいですね。
ちあきさんのファンに長く愛される楽曲誕生の片棒を担ぐことができて、ぼくにとってものづくりの冥利に尽きる思い出です。





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