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加藤和彦との結婚、そしてサディスティック・ミカ・バンドの誕生

2023.10.16

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京都の平安女学院に通っていた福井光子(ミカ)が、加藤和彦と出会ったのは高校2年生、17歳の秋のことだ。

龍谷大学の学生だった加藤はザ・フォーク・クルセダーズのメンバーだったので、京都の若者たちの間ではちょっとした人気者になっていた。

ミカは同級生とフォークデュオを組むことにしたとき、ファンだった加藤にギターのレッスンを頼もうと思い立って、フォークルが出演するコンサートに出かけて本番前の楽屋を訪ねた。
そして首尾よくOKをもらった。

だがレッスンを引き受けてはみたものの、いざ始めてみるとなかなか二人は上達しない。
そこで加藤がある日、こう言った。

「この先何年、あなたたちにギターを教えてもコンサートには間に合いそうにないから、とりあえず歌の練習をしましょう」


こうして加藤がミカ&トンコというフォーク・デュオのバックでギターを弾くことになり、そこからミカとの個人的な付き合いも始まった。
だが1967年の秋にフォークルの「帰って来たヨッパライ」が爆発的に大ヒット、周囲の状況が一変してしまう。

フォークルとして1年間の限定で音楽活動を始めた加藤は、仕事のために東京に住むようになった。
その直後、1968年2月に起こったセカンド・シングル「イムジン河」の発売中止事件に巻き込まれ、急きょ代わりにつくった「悲しくてやりきれない」がヒットするなど、加藤は多忙を極めて仕事に追われる日々となる。

それでも殺人的なスケジュールの合間をぬって、加藤は恋人に会うために京都に通いつづけた。
そして、大学生になっていたミカにプロポーズした。

母や妹が後押ししてくれたこともあって結婚を承諾したミカは、1970年の夏に日本のミュージシャンたちが北米を回る『ヤング・ジャパン国際親善旅行』に加藤とともに参加し、仲間たちに祝福されて旅先のカナダの協会で挙式する。

ミカの記憶によれば、サディスティック・ミカ・バンドが誕生したのは1971年の11月だったという。
最初のメンバーは加藤とミカ、それにドラムのつのだひろの3人。
ただしデビュー曲「サイクリング・ブギ」のレコーディングには、小原礼がベース、高中正義がギターで参加した。

そのシングル盤は1972年6月5日、加藤が東芝レコードの中に設立したプライベート・レーベル”ドーナッツ”から発売された。
その時、つのだひろは自分のバンドを結成するために、メンバーからは抜けていた。

加藤はそこで前の年にロンドンの街角、ハイ・ストリート・ケンジントンを歩いていて、偶然にすれ違った高橋幸宏をドラムに迎え入れることにした。

こうした流れのなかで11月になるとバンドの全体像が見えてきた。
初ステージとなった日大講堂での「年忘れコンサート」は加藤和彦名義だったが、サディスティック・ミカ・バンドの事実上のデビューとなった。

12月30、31日「祭1972暮-さらば歌達よ-」東京・両国 日大講堂
(出演)岡林信康、遠藤賢司、友部正人、高田渡、 あがた森魚、三上寛、ザ・ディラン2、加藤和彦、ガロ、加川良、及川恒平、泉谷しげる、 かまやつひろし、南こうせつとかぐや姫、山本コータロー、なぎらけんいち、五輪真弓 etc。


ファースト・アルバム『サディスティック・ミカ・バンド』は、1973年5月5日にリリースされた。
日本ではまだほとんど誰にも知られていなかった音楽、西インド諸島のレゲエやスカ・ピートを取り入れた先駆的な作品は、それまでにはないノリとサウンドで、当時としては新しい音楽だと話題になった。

ただし、それはごく一部の関係者の間だけのことで、一般にまではまだまだ届かなかった。

だがバンドに大きな変化をもたらす出来事が、すでにロンドンで起こっていた。
ファースト・アルバムのレコーディングを終えたバンドのメンバーは、1ヶ月ほど充電期間としてロンドンに滞在していた。連日コンサートや映画に通い、ショッピングを楽しむのが目的だった。

そのなかで起きた新たな出会いについて、ミカがこう記している。

そんなある日、私たちはロキシー・ミュージックのコンサートを音楽・映画評論家の今野雄二さんのはからいで聴きに行った。
休息時間に席を立った私は、向こうから歩いてくる、ジーンズ姿の男性に、「トイレはどこですか」とたずねた。
彼こそ、名プロデューサー、クリス・トーマスだった。


クリスは1968年にビートルズの『ホワイト・アルバム』にアシスタント・プロデューサーとして関わったが、プロコル・ハルムやピンク・フロイド、バッド・フィンガー、ロキシー・ミュージックなどのバンドの制作も手がけていた。

トイレの場所をたずねた私は、彼がそんな人物だということに気づきもしなかったし、男女の出会いにしても、お世辞にもロマンティックとは言いがたい。


席に戻ろうとするミカに、「あなたは日本のサディスティックミカバンドのメンバーですね」とクリスが話しかけてきた。
興味を持っているのでぜひレコードを聴かせてくれと言われたミカは、「もちろん、よろこんで」と答えた。

日本に帰ってからクリスにレコード送ったところ、折り返しテレックスで返事が来たのだが、そこにはバンドのプロデュースをしたい、しかも日本でと書いてあった。
ロキシー・ミュージックのブライアン・フェリーと知り合った加藤もまた、その人脈からクリスとは自然につながっていた。

来日したクリスをプロデューサーに迎えて、2枚目のアルバム『黒船』のレコーディングは1974年の2月から始まった。
このレコーディング中の3月21日、加藤は27歳の誕生日を迎えている。

音楽を創造することに関しては徹底してこだわる加藤にとって、それはほんもののロック・サウンドの追求の場となった。
そしてミカにとっては、恋の始まりとなっていく。

水面下での大波乱はあったけれど、二枚目のアルバム『黒船』は無事出来上がった。
プロモーションのためロンドンに行かなければならなかったが、スケジュールの都合で、私ひとりだけで出かけることになった。
そこで数週間ぶりにクリスに再会。
あくまでもスケジュールの都合だったのだが、クリスは自分に会うために来たのだと信じていた。
もっとも、クリスに会いたいという気持ちがあったのは事実だけれど。


サディスティック・ミカ・バンドはこの年、精力的にライブ活動を行ってキャロルとのジョイント・ツアー、日比谷野音のロックコンサート、福島県郡山市で開催された「ワン・ステップ・フェスティバル」にも参加している。

そして5月30日に完成していた『黒船』が11月5日にリリースされると、日本の音楽史に残る傑作という評価を得たのである。

だが3枚目のアルバム『Hot!Menu』のレコーディングのためにクリスが再び来日した頃には、ミカとの関係が周囲にも隠せなくなっていたという。

にもかかわらず、加藤さんもクリスもジェントルマンで、レコーディングはトラブルなく進み、音楽的にも充実したものが出来上がった。
私に比べて2人はずっと大人だったわけだ。
けれど、私と加藤さんとの中はしっくり行かなくなっていて、すでに『Hot!Menu』のレコーディング前から離婚しましょう、という話になっていたのだった。


この年の秋、サディスティック・ミカ・バンドはロキシー・ミュージックに帯同して、英国ツアーを行う予定が決まっていた。
ミカと加藤はプライベートの離婚問題を一時的に棚上げにしてライブを行って評判になり、イギリスのミュージックシーンに大きな反響を巻き起こした。

加藤は念願だった海外での最初の成功を、ここで収めることができたのだった。
だが、このツアーがバンドにとっては最後の仕事になった。

ツアー最後の日、ミカはホテルには戻らず、クリスの家に走った。

しばらくしてミカは離婚手続きのために帰国するが、加藤和彦からその日のうちに離婚届にサインをしてもらい、クリスと暮らすために再びイギリスに旅立った。

それから20年の歳月を経て、ミカは著書の「ラブ&キッス英国―イギリスは暮らしの達人」で、加藤への感謝の言葉をこう綴っている。

最後まで、実に優しい人だった。
でも、そんな加藤さんの「男の優しさ」を心底理解することができない未熟な私、だったと思う。
今にして思えば、加藤さんと私は「お友達夫婦」の走りとも言うべき結婚生活だった。
ミカ、トノバンと呼び合い、お料理上手の加藤さんはいつでもおいしい食事を作ってくれた。
日本では、そんな夫婦はまだまだ少なかったと思う。
それに、生活全般にわたって加藤さんの影響を受け、センスを磨かれたことは数え切れない。


公私ともにパートナーだったミカを失った加藤には、新たなパートナーとなる作詞家の安井かずみとの出会いが待っていた。

(注)本コラムは 2015年10月10日に初公開されました。福井ミカ氏の文章はすべて「ラブ&キッス英国―イギリスは暮らしの達人」(福井ミカ著 徳間文庫刊)からの引用です。

(参照コラム・1970年に北米を回った加藤和彦から生まれた「あの素晴しい愛をもう一度」)

〈参照コラム・イギリスでも注目されていた日本のロック、サディスティック・ミカ・バンドの全英ツアーが始まった〉









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