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加藤和彦との結婚、そしてサディスティック・ミカ・バンドの誕生

2015.10.10

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京都の平安女学院に通っていた福井光子(ミカ)が、加藤和彦と出会ったのは高校2年生、17歳の秋のことだ。

龍谷大学の学生だった加藤はザ・フォーク・クルセダーズのメンバーだったので、京都の若者たちの間ではちょっとした人気者になっていた。

ミカは同級生とフォークデュオを組むことにしたとき、ファンだった加藤にギターのレッスンを頼もうと思い立って、フォークルが出演するコンサートに出かけて本番前の楽屋を訪ねた。
そして首尾よくOKをもらった。

だがレッスンを引き受けてはみたものの、いざ始めてみるとなかなか二人は上達しない。
そこで加藤がある日、こう言った。

「この先何年、あなたたちにギターを教えてもコンサートには間に合いそうにないから、とりあえず歌の練習をしましょう」


こうして加藤がミカ&トンコというフォーク・デュオのバックでギターを弾くことになり、そこからミカとの個人的な付き合いも始まった。
だが1967年の秋にフォークルの「帰って来たヨッパライ」が爆発的に大ヒット、周囲の状況が一変してしまう。

フォークルとして1年間の限定で音楽活動を始めた加藤は、仕事のために東京に住むようになった。
その直後、1968年2月に起こったセカンド・シングル「イムジン河」の発売中止事件に巻き込まれ、急きょ代わりにつくった「悲しくてやりきれない」がヒットするなど、加藤は多忙を極めて仕事に追われる日々となる。

それでも殺人的なスケジュールの合間をぬって、加藤は恋人に会うために京都に通いつづけた。
そして、大学生になっていたミカにプロポーズした。

母や妹が後押ししてくれたこともあって結婚を承諾したミカは、1970年の夏に日本のミュージシャンたちが北米を回る『ヤング・ジャパン国際親善旅行』に加藤とともに参加し、仲間たちに祝福されて旅先のカナダの協会で挙式する。

(参照コラム・1970年に北米を回った加藤和彦から生まれた「あの素晴しい愛をもう一度」)加藤和彦 あの素晴らしい愛をもう一度

ミカの記憶によれば、サディスティック・ミカ・バンドが誕生したのは1971年の11月だったという。
最初のメンバーは加藤とミカ、それにドラムのつのだひろの3人。
ただしデビュー曲「サイクリング・ブギ」のレコーディングには、小原礼がベース、高中正義がギターで参加した。

そのシングル盤は1972年6月5日、加藤が東芝レコードの中に設立したプライベート・レーベル”ドーナッツ”から発売された。
その時、つのだひろは自分のバンドを結成するために、メンバーからは抜けていた。

加藤はそこで前の年にロンドンの街角、ハイ・ストリート・ケンジントンを歩いていて、偶然にすれ違った高橋幸宏をドラムに迎え入れることにした。

〈参照コラム・イギリスでも注目されていた日本のロック、サディスティック・ミカ・バンドの全英ツアーが始まった〉

こうした流れのなかで11月になるとバンドの全体像が見えてきた。
初ステージとなった日大講堂での「年忘れコンサート」は加藤和彦名義だったが、サディスティック・ミカ・バンドの事実上のデビューとなった。

12月30、31日「祭1972暮-さらば歌達よ-」東京・両国 日大講堂

(出演)岡林信康、遠藤賢司、友部正人、高田渡、 あがた森魚、三上寛、ザ・ディラン2、加藤和彦、ガロ、加川良、及川恒平、泉谷しげる、 かまやつひろし、南こうせつとかぐや姫、山本コータロー、なぎらけんいち、五輪真弓 etc。


アルバム サディスティックミカ・バンド


ファースト・アルバム『サディスティック・ミカ・バンド』は、1973年5月5日にリリースされた。
日本ではまだほとんど誰にも知られていなかった音楽、西インド諸島のレゲエやスカ・ピートを取り入れた先駆的な作品は、それまでにはないノリとサウンドで、当時としては新しい音楽だと話題になった。

ただし、それはごく一部の関係者の間だけのことで、一般にまではまだまだ届かなかった。

だがバンドに大きな変化をもたらす出来事が、すでにロンドンで起こっていた。
ファースト・アルバムのレコーディングを終えたバンドのメンバーは、1ヶ月ほど充電期間としてロンドンに滞在していた。連日コンサートや映画に通い、ショッピングを楽しむのが目的だった。

そのなかで起きた新たな出会いについて、ミカがこう記している。

そんなある日、私たちはロキシー・ミュージックのコンサートを音楽・映画評論家の今野雄二さんのはからいで聴きに行った。
休息時間に席を立った私は、向こうから歩いてくる、ジーンズ姿の男性に、「トイレはどこですか」とたずねた。
彼こそ、名プロデューサー、クリス・トーマスだった。


クリスは1968年にビートルズの『ホワイト・アルバム』にアシスタント・プロデューサーとして関わったが、プロコル・ハルムやピンク・フロイド、バッド・フィンガー、ロキシー・ミュージックなどのバンドの制作も手がけていた。

トイレの場所をたずねた私は、彼がそんな人物だということに気づきもしなかったし、男女の出会いにしても、お世辞にもロマンティックとは言いがたい。


席に戻ろうとするミカに、「あなたは日本のサディスティックミカバンドのメンバーですね」とクリスが話しかけてきた。
興味を持っているのでぜひレコードを聴かせてくれと言われたミカは、「もちろん、よろこんで」と答えた。

日本に帰ってからクリスにレコード送ったところ、折り返しテレックスで返事が来たのだが、そこにはバンドのプロデュースをしたい、しかも日本でと書いてあった。
ロキシー・ミュージックのブライアン・フェリーと知り合った加藤もまた、その人脈からクリスとは自然につながっていた。

来日したクリスをプロデューサーに迎えて、2枚目のアルバム『黒船』のレコーディングは1974年の2月から始まった。
このレコーディング中の3月21日、加藤は27歳の誕生日を迎えている。

音楽を創造することに関しては徹底してこだわる加藤にとって、それはほんもののロック・サウンドの追求の場となった。
そしてミカにとっては、恋の始まりとなっていく。

水面下での大波乱はあったけれど、二枚目のアルバム『黒船』は無事出来上がった。
プロモーションのためロンドンに行かなければならなかったが、スケジュールの都合で、私ひとりだけで出かけることになった。
そこで数週間ぶりにクリスに再会。
あくまでもスケジュールの都合だったのだが、クリスは自分に会うために来たのだと信じていた。
もっとも、クリスに会いたいという気持ちがあったのは事実だけれど。


BLACK SHIP


サディスティック・ミカ・バンドはこの年、精力的にライブ活動を行ってキャロルとのジョイント・ツアー、日比谷野音のロックコンサート、福島県郡山市で開催された「ワン・ステップ・フェスティバル」にも参加している。

そして5月30日に完成していた『黒船』が11月5日にリリースされると、日本の音楽史に残る傑作という評価を得たのである。

だが3枚目のアルバム『Hot!Menu』のレコーディングのために、クリスが再び来日した頃にはミカとの関係が周囲にも隠せなくなっていたという。

にもかかわらず、加藤さんもクリスもジェントルマンで、レコーディングはトラブルなく進み、音楽的にも充実したものが出来上がった。
私に比べて2人はずっと大人だったわけだ。
けれど、私と加藤さんとの中はしっくり行かなくなっていて、すでに『Hot!Menu』のレコーディング前から離婚しましょう、という話になっていたのだった。


この年の秋、サディスティック・ミカ・バンドはロキシー・ミュージックに帯同して、英国ツアーを行う予定が決まっていた。
ミカと加藤はプライベートの離婚問題を一時的に棚上げにしてライブを行って評判になり、イギリスのミュージックシーンに大きな反響を巻き起こした。

(参照コラム・イギリスでも注目されていた日本のロック、サディスティック・ミカ・バンドの全英ツアー)

加藤は念願だった海外での最初の成功を、ここで収めることができたのだった。
だが、このツアーがバンドにとっては最後の仕事になった。

ツアー最後の日、ミカはホテルには戻らず、クリスの家に走った。

しばらくしてミカは離婚手続きのために帰国するが、加藤和彦からその日のうちに離婚届にサインをしてもらい、クリスと暮らすために再びイギリスに旅立った。

それから20年の歳月を経て、ミカは著書の「ラブ&キッス英国―イギリスは暮らしの達人」で、加藤への感謝の言葉をこう綴っている。

最後まで、実に優しい人だった。
でも、そんな加藤さんの「男の優しさ」を心底理解することができない未熟な私、だったと思う。
今にして思えば、加藤さんと私は「お友達夫婦」の走りとも言うべき結婚生活だった。
ミカ、トノバンと呼び合い、お料理上手の加藤さんはいつでもおいしい食事を作ってくれた。
日本では、そんな夫婦はまだまだ少なかったと思う。
それに、生活全般にわたって加藤さんの影響を受け、センスを磨かれたことは数え切れない。


公私ともにパートナーだったミカを失った加藤には、新たなパートナーとなる安井かずみとの出会いが待っていた。


(注)福井ミカの文章はすべて「ラブ&キッス英国―イギリスは暮らしの達人」(福井ミカ著 徳間文庫刊)からの引用です。

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