1966年11月2日、ボブ・ディランにも大きな影響を与えた伝説のブルースマン、ミシシッピ・ジョン・ハートがシシッピ州グレナダにて74歳で死去した。死因は心臓発作とされている。
柔らかく暖かいタッチのフィンガーピッキング・ギターと、深みのある歌声で人気を博したその音楽人生は、まさに“返り咲き”という言葉がふさわしいものだった。
ミシシッピ州キャロル郡テオクで生まれたジョン・ハートは、幼い頃にアヴァロンに移り住み、貧しい家庭で育つ。9歳の時に母親から1ドル50セントのギターをプレゼントしてもらい、独学で弾き始め、ユニークなスリーフィンガー奏法を身に着けた。
少年時代は大好きなギターを練習するかたわら、一日のほとんどを農作業に費やして過ごす。10歳の時には学校を退学し、その後は小作人として働きながら地元でバンドを組んだり、路上で歌ったりして、わずかばかりの金を稼いで生計を立てていた。
転機が訪れたのは1928年(34歳)のこと。当時、演奏パートナーだったフィドル奏者のウィリー・ナムールが、フィドルのコンテストで優勝して、オーケー・レコーズで録音するチャンスを得てくる。
その時、ナムールは、オーケー・レコーズのプロデューサー(トミー・ロックウェル)にジョン・ハートを推薦。その結果、「Monday Morning Blues」が気に入られたこときっかけに、彼はメンフィスとニューヨークで行われたレコーディングのセッション(13曲)に参加することとなる。
“ミシシッピ”という名前は、この時にオーケー・レコーズによって加えられたものだった。しかし、発表されたアルバムは商業的には失敗し、その後は録音のチャンスには恵まれず、再び田舎に戻ることとなった。
それから30年以上……地元の酒場などで時々演奏しながら、小作農として細々と暮らしていたジョン・ハートだったが、彼の知らないところ、ブルースマニアの間では伝説化していた。
再び転機が訪れたのは、1963年(70歳)だった。民俗音楽学者のトム・ホスキンズが、音楽業界では行方不明とされていたジョン・ハートの所在を探し当てたのだ。「Avalon, My Home Town」という自身の育った街の歌を耳にしたホスキンズは、伝説のブルースマンにワシントンD.C.へ移って、もっと広い舞台で演奏を始めることを奨励した。
同年7月、第3回ニューポート・フォーク・フェスティヴァルに出演したミシシッピ・ジョン・ハートは、「C.C. Rider」「Staggerlee」「Spike Driver Blues」の3曲を歌って観衆を虜にした。
それをきっかけに“返り咲いたブルースマン”として、新しい世代のアーティストや音楽ファンに受け入れられるようになる。
こうして何かに導かれるようにシーンに返り咲いたミシシッピ・ジョン・ハートは、60年代にアメリカのポップスシーンをわかせた“フォーク・リヴァイヴァル”という大波の中で、70歳にして黄金期を迎える。
その後、1966年に亡くなるまでのわずか3年の間で、ブルース、カントリー、ブルーグラス、フォーク、ロックンロールと、ジャンルの壁を超えた大きな足跡を残して去って行った。
アヴァロン・ブルース 1928 Okeh
フォーク・ソングス・アンド・ブルース
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