1947年6月1日、彼はロンドンの最西端に位置するヒリンドン自治区で生まれた。
兄弟は後にグラフィックアーティストとして成功した長男アートと次男デッドと彼の三兄弟だった。
一家は彼の誕生後すぐにヒースロー空港北部にある小さな町ユーズリーに引っ越す。
「家はユーズリーの町にあるホワイトゾーンアヴェニュー8番地にあった。夜になると、とても静かな場所だったよ。俺の人生において最初の15年間は、その町が宇宙の中心だった。」
一家が住んでいたのは公営住宅で、二階に2部屋、一階に2部屋あり、階段上に小さなボックスルーム(納戸)がある造りだった。
幼いロンに与えられた部屋は、シングルベッドがかろうじて置けるその納戸だったという。
「俺は活発すぎる子供だったから、おふくろは俺が扉を走り出て階段を転がり落ちるんじゃないかといつも心配していたよ。大きくなるにつれ、俺は兄貴たちを崇拝するようになり、何であれ彼らの真似をするようになった。」
彼の家では毎週末パーティーが行われていた。
まず夕食後に父親も母親も近所のパブへと繰り出して行く。
父親はいつもポケットにハーモニカを入れているほどの音楽好きだった。
パブでは酔っ払う度に調子っ外れのピアノを弾いて歌っていたという。
夜の10時半にパブから客が追い出されると「みんな8番地の俺の家に来い!」と父親が叫ぶ。
大勢の仲間が持てるだけの酒を持ち寄って彼の家でパーティーが始まる。
そこの集まった全員が心から音楽を愛し楽しんでいた。
家では母親が弾くピアノに合わせて、アコーディオン、カズー、スプーン、空き瓶…その辺にあるものすべてが楽器に変わった。
彼にとって、そんなゴキゲンな大人たちの宴は日常だった。
高校を卒業した彼は、二人の兄が通うイーリング・アートカレッジに進学する。
兄たちと同じく、彼もまた幼い頃から絵の才能を発揮して賞をいくつも獲っていたのだ。
その学校に通うことは母親の願いでもあった。
「兄の二人も通わせた場所でロニーにも同じチャンスを与えてあげたかったのです。」
彼はアートを学びながら音楽にも興味を持つようになる。
当時、兄たちの部屋は床から天井までレコードで埋めつくされていたという。
加えてギター、バンジョー、クラリネット、コルネット、サックス、トランペット、ハーモニカ、手製のドラムキット、ウォッシュボーン…様々な楽器が散乱していた。
二人の兄は、その部屋で毎週のようにアートカレッジの友達と頻繁にパーティーを開いては演奏をしていたのだ。
「あの頃は誰もがスキッフルを演奏していたよ。音楽、アート、演劇、女の子たちが、兄貴たちの生活を凄く魅力的にしていた。そのすべてが俺のやりたいことになってきたんだ。俺は思い切って兄貴たちの部屋にある楽器をすべて弾けるようになろう!と決意したんだ。」
彼は兄たちの影響で様々な音楽を聴くようになる。
ルイ・アームストロング、チャック・ベリー、エルヴィス・プレスリー、ファッツ・ドミノ、レッド・ベリー、ビックス・バイダーベック…などなど。
「俺に最初のレコードプレイヤーを買ってくれたのは兄のアートだった。灰色と栗色のダンセット製のやつで、俺にとって音楽の世界への玄関口となった。そのターンテーブルに最初に乗せたレコードは、確かジェリー・リー・ルイスの“火の玉ロック”だったと思う。最初に自分で買ったレコードは、カウント・ベイシー&ジョー・ウィリアムスのアルバムだった。」
<引用元・参考文献『俺と仲間〜ロン・ウッド自伝〜』ロニー・ウッド(著)、五十嵐正(翻訳)シンコーミュージック>