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ロック・バンドを目指していたファニーズがザ・タイガースになったことで誕生した日本のGS

2019.11.23

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1966年5月10日、京都会館第一ホールで行われた「全関西ロックバンド・コンテスト」で、約30バンドを抑えて優勝し、賞金をものにしたのは京都出身の「ファニーズ」だった。

その年の2月から大阪のジャズ喫茶”ナンバ一番” で、週2回レギュラー出演で人気があったファニーズは、普段から主にローリングストーンズの曲をレパートリーにしていたが、この日も「サティスファクション」を演奏して金星を射止めた。

賞金で購入したオーダーメイドの衣装は、やがてデビュー・シングル「僕のマリー」のジャケット写真で着用されることになる。

img_0タイガースが僕のマリー

プロを目指して5月半ばから大阪で合宿生活を始めたファニーズだが、6月29日にはファンの子にプレゼントされたチケットを手に、ビートルズの来日公演を観るために上京して、日本武道館の観客席でライブを体験している。

彼らが目指していたのは1960年代の前半にイギリスから始まった音楽、ビートルズやローリングストーンズのようにバンドのメンバーが、自ら演奏して歌うスタイルだった。
実際にその頃から沢田研二以外にも楽曲によって、岸部一徳や加橋かつみがメイン・ヴォーカルを担当していた。

やがて “ナンバ一番” で人気がトップになったファニーズは、10月9日に渡辺プロダクションのオーディションを受けることになった。
そこで裏方として動いてくれたのが内田裕也だった。

オーディションのために東京からスタッフが”ナンバ一番”までやって来たのは、その時点ですでに有望な新人だとみなされていたからだろう。


ファニーズ・ファンクラブは会員数約300名、それだけ人気が確かだったということだったので、東京進出が決まった後は”ナンバ一番” で「ファニーズさよなら公演」が催された。
11月3日には地元の京都府立植物園でも、「ファニーズお別れ会」が開かれている。


関西のファンの見送りを受けて11月9日に上京したファニーズは、マネージャーを加えて6人で共同生活を始めてまもなく、11月15日にテレビの人気番組「ザ・ヒットパレード」から声がかかって収録スタジオに呼ばれた。

その日、番組の企画者でありディレクターの椙山浩一(すぎやまこういち)に会ったファニーズは、その場でバンド名を「ザ・タイガース」と、半ば強引に変えられたという。

そして11月22日にオンエアされた「ザ・ヒットパレード」で、ザ・タイガースとして初めて全国の音楽ファンにその姿を見せた。

元シュガーベイブのメンバーで、1976年に大瀧詠一と山下達郎の3人で『NIAGARA TRIANGLE Vol.1』を発表してデビューするシンガー・ソングライターの伊藤銀次は、それを見逃したことについて自身のブログにこんな文章を記している。(注1)

ザ・タイガースの「ザ・ヒットパレード」でのTVデビューを、残念ながら僕は見逃してしまった。
弟が見ていてくれて、ポール・リビアとレイダースの「Kicks」を演っていたよと教えてくれた。
僕もその当時、選曲だけはうるさいくせにへたくそだったアマチュア・バンドで、ポール・リビアとレイダースの「Just Like Me」とか演っていたので、何となくそのバンドが気になった。


奇しくも伊藤はザ・タイガース解散後、ソロで活躍していた沢田研二のアルバム『GS.I LOVE YOU』(1980年)と『ストリッパー』(1981年)で、サウンド・プロデューサーを務めることになる。
また、1882年のザ・タイガースの再結成ではアレンジを担当している。

611DJMGXX7L沢田研二 GS.I LOVE YOU

オンエアからわずか10日後の12月1日、ザ・タイガースのデビュー・シングル用のレコーディングが行われた。
用意されていたのは「マリーの想い出」という、童謡のようなオリジナル曲だった。

一見するとただメルヘン的でやさしい言葉で出来ている「マリーの想い出」の歌詞は、実は自由主義を求める動きが強まった大正デモクラシーの影響下で、詩人や音楽家たちが起こした音楽ムーブメントを継承するものだった。

明治時代には国家が主導して「蛍の光」や「故郷の空」などに代表される、外国曲に日本語をつけた唱歌が数多く作られた。
そうではなく、少年少女たちのために、新しい日本のオリジナルを作ろうとしたのが、北原白秋や西條八十、野口雨情らによる大正童謡運動である。

そこから生まれた代表作のひとつ、「赤い靴」(野口雨情作詞 本居長世作曲)は歌詞からもメロディからも、どことなく「マリーの想い出」とのつながりが感じられる。

野口雨情と本居名世のコンビには、「青い目の人形」という歌もあった。


このふたつ、つまり”赤い靴はいてた女の子”と”青い目をしたお人形”は、”フランス人形 抱いていた”と歌われる「マリー」にイメージが重なり合う。

作詞した橋本淳は子供の頃からジャズとクラシックが好きで、大量のレコードを自分で買って聞き込んでいた。父は大正童謡運動の主要メンバーの一人、名著といわれる岩波文庫の『日本童謡集』を編纂した童謡詩人、児童文学者の与田準一である。

作曲したすぎやまこういちは音楽家を目指していたものの、器楽演奏が出来なくお金もないので授業料の安い東京大学に入り、お金を払って勉強を教わる音楽大学より、お金をもらいながら音楽を勉強できるからと、ラジオの文化放送に入社した変わり種である。
もともとクラシックに造詣が深かったが、放送局の社員のままCM音楽の作曲家を始めていた頃に、ビートルズの「イエスタデイ」と「ミッシェル」に出会って、日本にもバンドの時代が来ると確信したという。

Beatles Michelle blaa  ミッシェル

二人が作った「マリーの想い出」は、日本人が好きで誰にも受け入れられやすいと言われるクリシェを、イントロのギターやメンバーによるコーラスで効果的に多用していた。
このクリシェするコーラス・ワークとは、初期のビートルズが最も得意とする技だった。

大正童謡運動の創作精神の歌詞と、クラシック音楽とビートルズが掛け合わされた曲、それをローリングストーンズのナンバーを得意とするファニーズが、ザ・タイガースとして最初に歌って演奏したことで、日本独自の音楽文化のGSが誕生したのである。

ただし沢田研二の姿に日本のロックの将来を感じていた内田裕也は、ここでタイガースと離れざるを得なくなった。

pic7_1ビートルズ


伊藤銀次は映画「ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ! 」の何度目かの再上映を見に行って、小学校の同級生の女の子と偶然に再会した。
それがきっかけで彼女から、1枚のはがきをもらったことがあるという。

彼女から届いたはがきには、今度わたしの大好きなファニーズが「マリーは想い出」という曲でデビューしますのでよかったら応援してください、といったようなことが書いてあった。
<略>
それからしばらくしてザ・タイガースが「僕のマリー」でデビューしたとき、それがはがきにあったファニーズだったとをわかったときはマジに驚ろいた。


ビートルズ・ファンだった関西の少女たちの期待を背負って上京したファニーズは、1967年2月5日にザ・タイガースとなって「僕のマリー」でデビューを飾り、2枚目の「シーサイド・バウンド」と3枚目の「君だけに」が大ヒットした。
さらには「モナリザの微笑み」、「花の首飾り/銀河のロマンス」も連続ヒットさせて、GSを一大ブームにまで持っていくのだったが、歌謡曲に近づいたのも事実で、主張の強いメンバーだった加橋が脱退したことでバンドの存在が危うくなっていく。



ザ・タイガース「僕のマリー」


「ミッシェル」(カラオケ)


(注)引用元・伊藤銀次オフィシャルブログ http://ameblo.jp/ginji-ito/theme-10054352040.html
なお本コラムは2014年11月22日に公開されました。


TAP the POPメンバーも協力する最強の昭和歌謡コラム『オトナの歌謡曲』はこちらから。

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