2019年3月27日、“ロカビリーの女王” ワンダ・ジャクソン(現在84歳)がライブ活動からの引退を表明した。
彼女のFacebookには、マネージメントからの言葉としてファンへのメッセージが綴られた。
「60年以上にわたるツアー生活を終え、ワンダ・ジャクソンはパフォーマンスから引退します。今回の引退は単に彼女の健康と安全を考えてのことです。これまでワイルドな道程でしたが、長年にわたりサポートして下さったファンの皆様に感謝しております。しかしながら、これで終わった訳ではなく、人生の新たな章の始まりに過ぎません。」
2009年、女性ロカビリーシンガーの草分け的存在として活躍していた彼女はロックの殿堂入りを果たした。
彼女が受賞したアーリー・インフルエンス部門とは、現代のロックにインスピレーションと多大な影響を与えた人物が対象となる賞で、過去の受賞者リストにはロバート・ジョンソン、ウディ・ガスリー、ルイ・アームストロング、ピート・シーガー、ベッシー・スミス、マヘリア・ジャクソン、ナット・キング・コール、ビリー・ホリデイなど錚々たるレジェンド達の名が並んでいる。
1950年代の後半から1960年代初頭にかけて人気を博した彼女の歌を聴くと、カントリー&ウエスタンが黒人ブルースなどの影響をうけてヒルビリーが生まれ、それが発展してロカビリーになり、ロックンロール、そして現代のロックになっていく変遷・ルーツ・流れがよくわかる。
目鼻立ちの整った白人女性らしい可愛い顔に反して、感情的で迫力のある黒人のような歌い方をする彼女の歌唱スタイルは、当時の音楽シーンにおいて革新的なことだった。
1955年にデビューした彼女は、ロックンロールをレコーディングした初めての女性アーティストとして知られている。
もともとカントリーシンガーだった彼女は、エルヴィス・プレスリーに勧められてロックンロールに転向したという。
1937年10月20日、彼女はオクラホマ州にあるモードという小さな町で生まれた。
父親は理髪師をしながらセミプロのフィドル奏者(カントリーミュージシャン)でもあった。
彼女が幼い頃、一家はカリフォルニアに移住する。
それは父親が音楽の夢を追っての引っ越しだったという。
子供時代の彼女にとって、父親は最初の音楽の先生でもあった。
父親は幼い彼女にウエスタン・スイング(スイングとカントリーが融合した音楽のスタイル)など、当時流行していたバンドの演奏を観せて歩いていた。
しだいに彼女はギターを手にして、フィドルの父親と二人で演奏を楽しむようになる。
数年が過ぎ…「生まれ育った故郷に帰りたい!」と願う母親の意向で、一家はオクラホマへ戻る。
1954年、音楽が大好きだった彼女(当時17歳)は、オクラホマの田舎の高校に通っている時にアマチュアコンテストで入賞し、ローカルラジオ番組で15分枠で自分の番組を持つこチャンスを掴む。
彼女の歌声を番組で聴いたカントリー&ウェスタン歌手のハンク・トンプソンは、自分のバンドにスカウトする。
同年、彼女は初めてのレコーディングを経験する。
当時ハンクが在籍していたバンドのリーダー、ビリー・グレイとのデュエット曲「You Can’t Have my Love」(デッカレコード)は、カントリーチャートで8 位となる。
1956年(当時18歳)にはソロ名義で活動するようになり、ジーン・ヴィンセントと同じキャピタルレコードに移籍してカントリーとロカビリーを融合させたような楽曲「I Gotta Know」をリリースする。
その後「自分はカントリー歌手として進むべきか?」と迷っていた時に、当時のボーイフレンドだったエルヴィス・プレスリーからの助言を受けて、彼女はロックンロールへと転向する。
1958年にはエルヴィスの「Let’s Have a Party」をカヴァーしてNo.1ヒットを獲得し、彼女は“ロカビリー女王”としての人気を不動のものとする。
1960年代半ば、ロカビリー人気の低迷と共に彼女は(ある意味古巣の)カントリー音楽界へ転身する。
彼女はロカビリー調の歌い方を変え、幼い頃に父親から学んだカントリーミュージックを本来の美しい声で歌う実力派として、さらなる名声を確立していく。
1970年代にはゴスペルも歌うようになり、キリスト教の集いを中心に活動を続けていた。
1980年代に入ってからは、ネオロカビリーの人気と共に、彼女は“元祖ロカビリーの女王”として注目を集める存在となる。
【佐々木モトアキ プロフィール】
https://ameblo.jp/sasakimotoaki/entry-12648985123.html
【TAP the POP佐々木モトアキ執筆記事】
http://www.tapthepop.net/author/sasaki