電気の配線はむき出しになっていた。壁紙は剥がれていたし、家具も壊れていた……。
汚れた皿が積み重なり、あちらこちらに空きビンが並び、音楽雑誌やレコードが床に無造作に置いてある……。
世界各地で開催されているローリング・ストーンズの展覧会では、セクションごとにテーマが設定されてあった。
そのなかでも強く印象に残った一つは、「イーディス・グローヴ」というセクションだった。
そこではバンド名がローリング・ストーンズになる前だった1962年から1963年にかけて、ブライアン・ジョーンズとキース・リチャーズが共同生活し、いつもミック・ジャガーが通っていた部屋が可能な限り正確に再現されていた。
チェルシーにあったその汚れた薄暗い部屋に暖房はなく、電灯は一つだけであとはローソクの明かりで暮らしていた。
皮肉なことに食料や食器を入れる棚だけはたっぷりあったが、当時のストーンズはいつも食べ物が不足していた。
彼らは隙間風が入るその埃だらけのアパートの部屋に集まって、ギターを抱えてアメリカから仕入れたブルースやR&Bのレコードを聞いて、ひたすら研究と練習を重ねた。
それらをコピーすることに全精力を費やしていたキース・リチャーズが、1971年のインタビューでこのように回想している。
イーディス・グローブ、世界の果てさ。あそこは……どの部屋もそうっと歩かなきゃ今にも壊れそうだった。一番端の部屋にたどり着くまで、それはゆっくりと歩いたもんさ。どの部屋も閉まっているのに、鼻がひん曲がりそうなほど臭いんだ。ありゃひどかったね。
ブライアンが持ってきたのはラジオ付きのレコードプレイヤーだけだった。部屋にあるのはベットが数台と小さなコンロだけ。俺たちはひたすら楽器を弾いていたよ。
ブライアン・ジョーンズとキースは1日中アパートにいて練習に明け暮れたが、日に一度はどこかのパーティーに押しかけて、失敬してきたビール瓶を3ペンスで売り、近くのスーパーマーケットからジャガイモとか卵とか、そんなものをくすねる計画を立てていた。
キースの母がときどき心配してやってきて、少なくとも食器棚などにたまっていた埃の層だけはとり除いてくれたという。
彼女はいう。
「あの子たちはこういったんですよ。“お茶をどうぞ”って。そしてお茶を探すんです。それからコップをみつけるまで大騒ぎなんです。いつもひびの入った古いコップでした。」
ブライアンが切り出したR&Bのグループをつくる話は、そんな状況でもその部屋でどんどん進行していった。
自分たちの先々についてはミックと3人でよくプランを話し合ったが、それはいかにしてブルースとR&Bを広めていくかということだった。
金がなくて危機を感じていたという事実を別にすれば、彼らは個々に金儲けを考えたりはしていなかった。
3人が問題にしていたのはいつだって、自分たちが信じている音楽のことだけだった。
彼らはロンドンのジャズ・クラブの世界に出入りしていたので、バンドをつくって活動すればファンが得られると思っていたが、そう簡単なものではなかった。
そして無為に時を過ごすにつれて、彼らの髪の毛は伸びてボサボサになっていった。
ブライアンは当時をこう回想している。
「ミックがいつも議論をリードした。ミックは、ぼくたちが信じていることをやっていかなければだめだ、というんだ。そして我々は自分たちがベストをつくせば、あとになって後悔することはないだろうと思っていたんだ」
ミックは自宅からロンドン・スクール・オブ・エコノミクスに通う学生だったが、その奨学金で家賃などをある程度まで支えていたという。
しかし、彼らのブルースやリズム・アンド・ブルースへの熱狂は、なかなかファンを獲得することにまではつながらなかったのも事実だ。
プロモーターやクラブ経営者にあてて売り込みの手紙をせっせと書いたが、それもうまくいかなかった。
そんな状態がどのくらい続いたのか、事実をたどってみたら6ヵ月以上だったのかもしれない。
それでもピアノとオルガンの募集広告にイアン・スチュアートが応募してきて、彼が加入してから流れが変わってきたのである。
1962年7月12日、記念すべき最初のギグがマーキークラブで行われて、ローリング・ストーンズが誕生した。
だが、ここではまだドラムとベースが流動的だった。
イアンはその後、彼らのロード・マネジャーとして裏方になって働き、ある種のお目付け役となっていっていくことになるのだが、それから間もなくしてベースにビル・ワイマンが加わった。
それはテクニックと人間性が、イアンの目に叶ったからであった。
こうして5人が揃ったところで、腕のいいチャーリー・ワッツが引き抜かれてきて、6人のメンバーが揃ったのは1963年になってまもなくのことだった。
そうなっていく過程でブライアンとキースは完璧な協力関係のを築き上げて、それまで誰もやったことがない独特のアンサンブルによるギターサウンドを作り上げていた。
音楽ジャーナリストのマイケル・ライドンは、ストーンズのそうした特殊性をこのように分析していた。
ほかにストーンズのようなグループがあるだろうか?
ロンドンの安アパートでふるえながら、古いブルースのレコードをかけて、ソリストたちについて議論した。
また、みすぼらしい酒場や上流階級のパーティでリトル・ウォーターの曲から自分たちの方法をさぐった。
はたまた、リッチモンドのクロータディ・クラブで最初のファンを獲得したあのとき以来、ストーンズは、ロックンロール・バンドの真に力強いエッセンスを保ちつづけている。
そんなことばかりでなく、ストーンズは各種の要素が混合した、珍しい合金なのだ。
つまり、つまらない器用さとひとを小馬鹿にするようなナルシシズム、口に出していうことはないが完璧なグループ間の友情、けっして金では買われないシニカルな物質主義、リズム&ブルースやその白人の修正した形を通してブルースやブギウギに戻ろうという音楽への熱っぽい愛、などの合金なのだ。
その合金こそが、音楽界の宝物になっていったのである。
<参考文献>『新宿プレイマップ』1972年3月号
「● 瞑想ライフ・スタイル③ 20世紀の荒野をいく転石たち ザ・ローリング・ストーンズ 中上哲夫」