ダイナマイトにひえ

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追悼・船村徹~日本で最初にヒットしたロックンロール・ナンバー「ダイナマイトが百五十屯」の破壊力① 

2017.02.17

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日本で最初にヒットしたロックンロール・ナンバーと言われているのが、1958年11月に発売されたシングル盤の「ダイナマイトが百五十屯」である。

歌ったのは当時23歳の映画俳優だった小林旭、作詞は関沢新一、作曲したのが後に演歌の大御所となる船村徹だった。

1958年9月にコロムビアからデビュー・レコード「女を忘れろ」(作曲・船村徹)を出した小林旭は、シングル第2弾となったこの曲のヒットをきっかけに、”爆弾男”すなわち”ダイナマイト・ガイ”のニックネームが付けられている。

それを短く縮めて”マイトガイ”と呼び、日活が売り出したのは翌1959年からのことだ。
主演した映画『二連銃の鉄』で「ダイナマイトが百五十屯」が挿入歌に使われたのは4月、続いて7月にも”マイトガイ”が活躍する映画『爆薬(ダイナマイト)に火をつけろ』が作られた。

小林旭の人気が爆発するのは8月の『南国土佐を後にして』、9月の『二階堂卓也 銀座無頼帖 銀座旋風児』、10月の『ギターを持った渡り鳥』と、3本の作品が連続してヒットしたことによる。

ギター渡り鳥

”マイトガイ”の人気がそこから急上昇し、小林旭は石原裕次郎と並ぶ大スターになっていった。

 烏(カラス)の野郎 どいていな
 とんびの間抜けめ 気をつけろ
 癪(しゃく)なこの世の カンシャク玉だ
 ダイナマイトがヨ 
 ダイナマイトが百五十屯
 畜生 恋なンてぶっとばせ


勇ましくもやけっぱちな恋の歌「ダイナマイトが百五十屯」の元ネタ、着想を得たと思われるのは2年ほど前、アメリカでヒットした「16トン(Sixteen Tons)」だ。

1955年の11月に発売された「16トン」は3週間で100万枚のシングル盤を売り上げて、当時のアメリカでは最速の記録を達成する爆発的ヒットになった。

これをヒットさせたテネシー・アーニー・フォードは20才でシンシナチ音楽学院に入学、クラシック音楽と声楽を学んだ後に放送局でアナウンサーとして働いていた。

やがて太平洋戦争が始まって空軍に召集されると爆撃部隊に所属、B-29爆撃機に搭乗して日本への空爆に参加した。

B29

フォードは終戦後、カルフォルニア州のラジオ局でアナウンサーとして働き始めて、カントリー音楽の番組で人気を得ると、キャピタル・レコードと契約して自ら歌うようになり、「ショットガンブギ」などをヒットさせた。

やがて黎明期のテレビに進出してパーソナリティとして有名になった1954年、久しぶりに吹き込んだ「16トン」がカントリー・チャートで10週連続1位、全米チャートでも6週連続1位を記録した。

つまり日本に膨大な料の爆弾を落として多くの人の命を奪った元アメリカ兵の歌ったヒット曲が、”爆弾男”と呼ばれてスターになった小林旭の誕生に一役買っていたことになる。


1946年にカントリー・シンガーのマール・トラヴィスが発表したこの曲は、貧しい炭鉱夫の過酷な生活をテーマにしたワークソング、リアルなメッセージを持つ労働歌だった。
ケンタッキーの炭鉱で石炭を掘っていた父親が、いつも口にしていた言葉からマールは歌を作ったのだ。

男というのは泥で出来てるらしい
だけど貧乏人は筋肉と血で出来てる
血と肉、骨と皮
おつむはからきしでも体は頑丈だ

毎日16トンを積み込んで何になる?
何年やっても借金がかさむばかり
聖ペテロさんよ もうちょい待ってくれ
おいらまだ天国には行けないんだ
魂を会社に取られているんだ


そんな「16トン」からインスパイアされたと思しき「ダイナマイトが百五十屯」は、頭のてっぺんから飛び出すような高音で小林旭が歌ったことによって、最初にヒットした日本産のロックンロール・ナンバーとなった。




小林旭の誰にも真似できないハイトーンボイスに注目し、それを最大限に活かす曲を作った船村徹は、東洋音楽学校のピアノ科出身でもとはクラシック畑だった。
学生時代には米軍キャンプでジャズの演奏をしていたこともあったが、作曲家になってからは日本調の歌作りに励むようになって大成した。

<日本で最初にヒットしたロックンロール・ナンバー「ダイナマイトが百五十屯」の破壊力②へ続く>


ちなみにダイナマイトが150屯といえば1トン・トラックなら150台分、大変な量の爆薬になるのだが、爆弾搭載量が1機あたり4500kg-9100kgのB-29が、日本への空襲で落としたのはそれとはケタ違いの量だった。

B29

たとえば1945年3月10日に行われた東京大空襲では、3個航空団からB-29が334機も参加した。
そして目標を爆撃したのは279機、投下された爆弾の種類は油脂焼夷弾、黄燐焼夷弾やエレクトロン焼夷弾など合わせると約38万発、1,700屯もの量だった。

これによって東京の3分の1以上の面積が焼け野原になり、10万人ともいわれる市民が殺されたのである。犠牲になったのは女性や子ども、疎開も出来ずに生活していたお年寄りが多かった。


*本コラムは2015年8月21日に初公開されました。

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