「本物の音楽」が持つ“繋がり”や“物語”を毎日コラム配信

TAP the POP

Extra便

大瀧詠一が初めて細野晴臣の部屋に入った瞬間、思わず発した言葉とは?

細野晴臣と大瀧詠一がはじめて出会うのは1967年の春先のことだが、きっかけはもう一人の友人との出会いだった。 その前年の秋、立教大学のキャンパスにある待ち合わせ…

Extra便

「パイド・パイパー・ハウス」はなぜ伝説のレコード・ショップとなったのか?

南青山にあった伝説のレコード・ショップ「パイド・パイパー・ハウス」は、1975年11月にオープンしてから足かけ14年間の営業で1989年6月に閉店した。 日本で…

TAP the DAY

大瀧詠一は設計士で僕は左官屋、細野晴臣が『ナイアガラ・ムーン』を聞きながら自作を語った日

大瀧詠一がエレックレコードとの契約で、プライベートレーベル「ナイアガラ」を設立したのは1974年9月だ。 自分のレーベルを持って作詞・作曲・編曲・プロデュース・…

TAP the DAY

追悼・遠藤賢司~確固たる意志を持って”純音楽”をめざした孤高の一匹オオカミ

1969年10月28日、お茶の水にあった全電通会館ホールで日大闘争救援会が主催するコンサート『ロックはバリケードをめざす』が開催された。 出演したのは遠藤賢司、…

TAP the DAY

1970年8月5日にアングラ・レコード・クラブから発売された記念すべき1枚のアルバム『はっぴいえんど』

1970年6月1日にエレックレコードから発売された吉田拓郎のシングル盤「イメージの詩」と、B面の「マークⅡ」が口コミから評判になって、深夜放送など一部のラジオで…

Extra便

追悼・大橋巨泉~小学生の細野晴臣がいつも聴いていたラジオ『昨日のつづき』

中学時代から俳句をたしなんでいた大橋克己は、高校生のときに俳号で「巨泉」を名乗り始めて、それがそのままペンネームと芸名になった。 1950年代の後半から大学生の…

TAP the DAY

テクノポップを全世界に広めたYMOが武道館で“散開”した日

シンセサイザー、シーケンサー、ヴォコーダーなどの電子楽器を使ったテクノポップを生み出して、“メイド・イン・ジャパン”のポップスを世界中に知らしめたYMO。 この…

Extra便

追悼・大森昭男~はっぴいえんどの大瀧詠一を発見したことから始まったCM音楽の新時代

CM音楽のプロデューサーとして1970年代の音楽シーンに新風を吹き込んだ大森昭男は、日本におけるコマーシャルソングの祖といわれる三木鶏郎の門下生で、1960年に…

TAP the NEWS

私たちの望むものは〜“フォークの神様”と呼ばれた男が紡ぎ出した強烈なメッセージソング

岡林信康の実家は教会だった。 父親は新潟県の出身で30歳まで新潟で農業をしていたという。 しかし、閉鎖的な村社会が嫌になって故郷を飛び出し滋賀県の紡績工場に就職…

TAP the DAY

”はっぴいえんど解散”と銘打って行われたファミリーによる旅立ちコンサート

写真:井出情児 「はっぴいえんど」と「風街ろまん」、それに「HAPPY END」という3枚のアルバムを発表したはっぴいえんどは、すでに1972年いっぱいで実質的…

TAP the SONG

はっぴいえんどの「夏なんです」は日本語の歌詞にこだわった松本隆による“ラブソング”

立教大学の学生だった細野晴臣の家に慶應大学に通う松本隆が来て、ロックに日本語は乗るのだろうかと、アルバム『ジャックスの世界』などを参考にしながら、勉強会に取り組…

TAP the STORY

蓄音機を発明したエジソンにまでたどり着いた細野晴臣の音楽を探る旅

幼ない頃から晴臣少年は家にある重いSPレコードを選んで、自分で大きな蓄音機を回して聴くのが大好きだった。 蓄音機は母方のおじいさんにあたる中谷孝男のものだったが…

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